キマイラ問題

相変わらず読んでいるド・リベラの『虚無への参照–命題の理論』。分析哲学系・論理学系のターム(Sachverhalte(事態)、Truthmaker、tropesなど)の中世的考古学を展開するわけだけれど、当初、頭から読んでいかなかったせいか、なんだか今ひとつ議論に乗れないというか……。中身の議論もちょっといわゆる「スパゲッティコード」のような代物なので……。でも中盤を貫く中心的トピックをなすのは、中世で大きな問題だったとされる「キマイラ」の扱い。キマイラのような存在しないにもかかわらず言表で表せるものは、論理学的にどう扱えばよいのか、ということで、上のトゥルースメーカー(真をなす根拠)にも関わってくる問題。特に取り上げられているのが、14世紀のウッドハムのアダムが提唱したとされるsignificable complexe(複合的な意味可能体とか訳せるかしら?)という議論。これは真偽の判断の対象(つまり語の意味内容)というのは複合的なものであるとする立場で、判断の対象となるのは前提と結論からなる命題全体か、あるいは結論のみかという問題について、命題全体だとするウッドハムのアダムによって、初めて「意味内容」という概念が導入されたのだという。で、同時代のリミニのグレゴリオは、その枠組みを保持しながらも「神学的事情から」「結論のみ」の方へとシフトさせるらしいのだけれど、このあたりは議論もよく見えないし、当時の神学状況も絡んでなにやらとても煩雑(苦笑)。で、今度はそれをニコラ・オレームやジャン・ビュリダンなどが批判し、命題内の項は命題そのものの意味内容であって、命題自体が真偽の判断などを課すのではない、みたいな議論を展開するという。うーん、14世紀の論争はまたなかなかに複雑そうだ(笑)。