2008年09月05日

イタリア語史

ヴァレリア・デッラ・ヴァッレ&ジョゼッペ・パトータ『イタリア語の歴史--俗ラテンから現代まで』(草皆伸子訳、白水社)をつらつらと読む。具体例を示しながら、古い時代のイタリア語がどう変遷してきたかを綴った基本書。けれども学術書的な味わいはなく、年代別にエピソード単位でそこそこ面白く読める。イタリア語史上のダンテの位置というのはやはり突出している感じで、その若い頃の詩的言語への指向性たるやなんともすさまじいとしか言いようがない……。で、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオを経て、フィレンツェ方言は書き言葉として定着するのか……と思いきや、ルネサンス時代には各地に多数の「俗語」が乱立し、どの言葉で書くのかも相変わらず大きな問題であり続けるのだという。人文主義者らの宮廷語、マキアヴェッリに代表される同時代のフィレンツェ語、1300年代のフィレンツェ語への回帰などなど、いろいろな潮流があった模様で、さらに17世紀のクルスカ辞書の登場とそれに反目する18世紀の啓蒙主義運動などなど、通史的にはいろいろと面白いことになっている。うん、でもやっぱり、さしあたりはダンテの詩的言語だな、個人的には(笑)。

投稿者 Masaki : 22:35

2007年11月20日

[メモ] 「中世イスラム哲学史」下巻から

再びクリスティーナ・ダンコーナ編の『中世イスラム哲学史』下巻("Storia della filosofia nell'islam medievale", volume secondo, Giulio Einaudi editore, 2005)からメモ。アモス・ベルトラッチ「アヴィセンナの哲学思想」が全体的なまとまりとして有益。最初のところでは、アヴィセンナには4つの思想圏の交差路にあるとし(アラブ世界が継承したギリシア哲学、イスラム神学、ラテン中世の哲学、アラビア哲学)、とりわけアンリ・コルバン(フランスのイラン学者だ)が唱えているというアヴィセンナの「オリエント」な部分を前面に出している感じだ。なるほど、アヴェロエスなどのアリストテレス主義はどちらかというと外的世界の無限の征服に向かうような部分があるのに対し、アヴィセンナ思想は死を克服する神的なものの学知に彩られている、というわけか。スーフィズムやイスラムの照明派などの影響もあるらしいと。うーん、アンリ・コルバンも面白そうだ。

後半は主要著作をめぐってその思想のエッセンスを取り出すという趣向。もとのアリストテレス思想にはないアヴィセンナ独自の立場として示されているものとして、「自己」を実体とみる立場、内的感覚の理論、魂における知性の4区分などが挙げられている。また、アリストテレスの『分析後論』をベースに、形而上学についても「主題」「目的」といった概念を適用しているところにもオリジナリティがあるのだという。普遍概念に関しては、アヴィセンナの「馬性」の議論などを唯名論の嚆矢と見る話などがまとめられている。

投稿者 Masaki : 17:51

2006年09月09日

トロワとブリュージュ

asahi.comで知ったのだけれど、中世社会史の大御所、阿部謹也氏が4日に亡くなっていたそうだ。賤民などの西欧中世の暗部に光を当てた研究などは、まさに本邦での中世社会史のメルクマール。翻って日本社会への批判的言論もやはり見逃せないものだった。その志は、おそらく数多くの直接的・間接的な弟子筋によって、継承されていくに違いない。ご冥福を。

ちょうど最近でたばかりの概説書を二点読んでいたところ。限定的な都市を取り上げ、一方は通時的視線をもって、もう一方は共時的な観点から活写するという意味でどこか呼応し合っている感じがしなくもない。一つはJ.ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』(青島淑子訳、講談社学術文庫、2006)。13世紀のトロワの町を、市民生活という観点から描くもので、著者は作家だけに、比較的新しい歴史学的知見を取り入れつつ、一方でどこか人物像的なものへの配慮というか目線が感じられる。もう一つは、そのトロワのシャンパーニュ大市の衰退とともに台頭していくというブリュージュを、定点観測的に通史の視点から描いた河原温『ブリュージュ』(中公新書、2006)。こちらも基本的には文化史研究ながら、複合的視点から様々なトピックを取り上げた好著。ブリュージュは個人的にも2度ほど行ったことがあるけれど、運河の織りなす様といい、低い住宅の佇まいといい、ごく普通の目線・佇まいの上に文化が拡がっていくという、一種のダイナミズムを再認識させられるような気がしたのを覚えている。高尚とされるものも、地に足がついたところから発せられるという、ごく当たり前の話だけれど、意外にそうした部分はおざなりにされやすいわけで。同じ中世関連書でも、哲学系の文献や限定的なトピックの論考を読むのに疲れたら、やはりこういう概説書の広い視点を借りて、なにがしかの偏りを補正するのが結構大事かなという気がしたり。

投稿者 Masaki : 23:30

2006年08月25日

分類と系統樹

国際天文学連盟の投票で決まった冥王星の「追放」。ブリュノ・ラトゥールあたりが盛んに説く、科学の構築主義的な側面をいやがうえにも見せつけたような感じだ。公式などの法則はともかく、分類や定義をめぐっては、パワーバランスなどが物を言う余地はかなり大きいのかもしれないなあ、と。ちょうど三中信宏『系統樹思考の世界』(講談社現代新書)を読みかけているところで、科学のありうべき姿というようなことも含めて感慨にふけったり。同書は分類とも密接な関係にある普遍的な思想的営為として系統樹思考を考え直そうというもの。そうなると、当然これは通時態が問題になる。歴史を扱う限り、懐疑論にも狭い実証主義にも与しないギンズブルグ(同書でも言及されているが)のような立場はやはり擁護されてしかるべきとは常々思っていたけれど、ここではアブダクション(パースのいう、仮説数の最適化)の方法論が高く評価されていて興味深い。なるほどそれはあくまで最善の説明を探すための手法なのだけれど、歴史のように反復実験での検証が不可能なものの場合、最善の説明で満足しなくてはならないというのはある程度仕方のないこと。もちろん、その手法、とくにモデルの精緻化が、やはり実像に肉迫するためのアプローチとしては欠かせないとの条件つきなのだけれど……それがないと、歴史に関わる方法論はまさに構築主義以外のなにものでもなくなってしまうわけで(同時発生的・複線的なものが、単一系統と見なされてしまう危険の排除を、最適解という形からどう導くのか、とても興味あるところなのだが)。

同書でライムンドス・ルルスが言及されていたのが印象的。同書も指摘するとおり、ルルスの知恵の樹には通時的なものはなく、階層的な序列関係が前面に出ている。これに関連して、興味深い指摘が、ウンベルト・エーコ『完全言語の探求』(上村忠男ほか訳、平凡社、1995)にある。ルルスの考える原理の数が限定的で、開かれたものではないのは、世界を記述しつくすことに主眼があったのではなく、それが異教徒改宗のための道具だったからだ、という点だ。うーん、これは示唆的だ。閉じた体系はどこかで道具的な性格を強めてしまう……のかしら?

エーコ本の表紙を飾った、ブリューゲルの『バベルの塔』。3枚あるとされる『バベルの塔』のうち、ロッテルダムにある、1564年ごろ製作の一枚。

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投稿者 Masaki : 23:41

2006年03月03日

老境の作品

久世光彦氏死去。テレビなどでは「『時間ですよ』などで知られる……」という形で紹介されることが多いけれど、個人的にはむしろ近年の向田邦子作品の演出とか、あるいは『一九三四年冬−−乱歩』などの作家活動の方が印象的。いずれも、こういってよければ老境に入ってからの仕事だ。同書は今や文庫版で出ている。失踪した乱歩の内面をえぐる、実に「乱歩っぽい」迫力の一作だった。合掌。

確かサイードは、みずからの晩年に、先人たちの晩年の作というものに関心を寄せていたんだっけ。そこまで特化しないまでも、どの作家においても老境に差し掛かって以降の作品というのは存外に面白いのかもしれないなあ、と改めて思ったり。ちょうど日経新聞の夕刊で、筒井康隆が老人たちが書く小説は面白いはずだ、みたいなコメントをしていた。最新作『銀嶺の果て』は『バトルロワイヤル』真っ青の老人バトルの話なのだそうで(笑)。老人たちが元気な社会って、これから先の理想型かもしれないのだけれど……さて、どうなるんかねえ。

投稿者 Masaki : 15:05

2005年08月01日

ゲバラ

DVDで『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督、2004)を観る(ちなみに原作本は文庫になっている)。ロードムービーは映画の基本だよな〜とつねづね思っているけれど、加えてこれは、革命家チェ・ゲバラの前史だというから、期待しないわけにはいかない。凸凹コンビのコメディという感じで始まる若い青年二人の南米一周の旅は、「モーターサイクル……」という題名とは裏腹に、そのバイクが潰れたあたりから意味合いが変わっていき、やがて様々な出会いを通じて深い陰影を纏うようになる……。この映画がちょっとずるいのは、やはり史実としてのゲバラをリファーしてしまうから。旅の映画を観ているつもりで、いつのまにかゲバラの革命への道筋を想像してしまう。いわば背景の史実に誘導されてしまう。もちろんそれはこの映画の仕掛けなのだけれど……。とはいえ、旅というか、より一般に、物理的な移動が育む思想の「手触り」みたいなものは確実に存在するわけで、この映画、具体的描写でそういう手触りを描こうと挑んでいる気がして、そこはとてもいい感じだ。そう、あらゆる思想には思想以前の流体力学がある……なーんちて。

投稿者 Masaki : 16:15

2005年06月20日

数学史

積ん読になっているものを、たまに整理して引っ張り出すと、思わず面白いものが見つかったりする。最近目にしてちょっと面白かったのが『現代思想10月臨時増刊−−数学の思考』(青土社、2000)。収録論文のうち、特に個人的には、三浦伸夫「アラビア数学の創造性」あたりが興味深い。中世アラブ世界の数学状況なんて、なかなか取り上げられない気がするからね。まず、中世のイスラム世界で数学の発展を促した一因には、法学にかかわる遺産分割法などがあったのだという。なるほど実利はやはり駆動力になるわけか。筆記が重要な役割を果たした、というあたりも意外な感じだ。後半の中心はイブン・シナーンという数学者の話。「10-11世紀のアラビア数学と、16-17世紀の西欧数学」に類似性が見られるという指摘も刺激的。そのあたり、もっと読みたい気がする。こうしてみると数学史も、なかなかに面白そうだ。

投稿者 Masaki : 20:39

2005年03月02日

語根引き再び

十全に使いこなせるにはまだほど遠いが、アラビア語(アヴェロエスの『断言の書』亜仏対訳本を囓り読み(笑))やヘブライ語の辞書での「語根引き」も、少しづつ慣れてきている感じ。こうしてみると、語根を引き、それから派生形という形で目的の語に到達するというこの方式には、完全なアルファベットオーダーの辞書とはまた違った利便性があることがうっすら見えてきた。語根と派生形の関係を読むことになるため、辞書を引くという行為そのものが、自然と複眼的な発想になるんじゃないか、と。この方式では辞書のページを広いスパンで見ていかなくてはならず、単一項目でおしまいという完全なアルファベットオーダーよりも豊かな「辞書引き体験」が得られるかもしれない。うーん、これってセム語系のある種の知恵かもしれないなあ。逆に言えば、欧米辞書のアルファベットオーダー(これも実は12世紀ごろから登場したもので、それ以前の百科事典(セビリヤのイシドルスなど)なんかはテーマ配列的になっている)がいかに限定的なものかを示していたりもする。電子辞書のような小さな画面で引くならそちらの方が合理的かもしれないが、それでは「辞書で遊ぶ」みたいなことはできない。効率重視の合理性がともすれば隠してしまいがちな、遊びを許容する冗長性の豊かさを見直す契機はこんなところにもあったりするかも。

投稿者 Masaki : 16:25

2005年01月27日

メソス

昨日は某出版社の方々と会食。その席で、「ギリシア語でメディア(媒体)は何というんです?」と問われたものの、恥ずかしいことにすぐ出てこなかった(苦笑)。うーん、いかんなあ。で、正解はμέσος(中間物、媒体)。あるいはπόρος(手段、架け橋)あたりか。ちなみにギリシア神話の王女メデイア(Μήδεια)はまったく関係なし(昨日はちょっと勢いで妄言吐いてしまったけれど……小文字で始まるμήδεαには、たくらみとか、男性の陰部とかの意味もあって、言葉遊び的になら面白い「意味の場」が立ち上がってきそうだけれど)。ちなみに、Μηδίαというと、現在のイラン北西部(イラクあたり)の古王国。

投稿者 Masaki : 11:32

2005年01月12日

存在しているもの・していないもの

最近、プラトンの『ソピステス』を読み始めている。「存在する」「しない」をめぐる議論の出立点、ということで。先に挙げた内田樹『死と身体』では、フッサールの現象学について、「現事実的にそこにいない人間についての考察」(p.198)と喝破している。なるほど存在についての考察は当然、存在しないものの考察がついて回る、と。ハイデガーもそうだった、ラカンもそうだった、という話なのだけれど、当然というか、ベルクソンもそう……と改めて思わせてくれるのが、金森修『ベルクソン−−人は過去の奴隷だろうか』(NHK出版)。若者向きに書かれた案内書だけれど、なかなか面白くまとまっている。実証科学による脳の機能局在論ですっかり満足、という向きには揺さぶりの一撃かもね(ベルクソンのそれをトンデモと見なすか、別の立ち位置の可能性を開くものと見なすかはまた別の問題だけれど……)。

記憶と時間の問題、それってとりもなおさず現前しないもの、存在しないものをめぐる論究になっていかざるをえないわけで。中世あたりの時間論をちょっと辿っただけでも、例えば時間は背後に「永遠の相」のようなものが仮構されないと切り出されてこないし、そういう相を形作る一番のエレメントは記憶であり、と同時にそれは絶対的他者をもなす……なんて構図は容易に浮かび上がってくる。では具体的な切り出し方は、と問うと、これは難しい問題になっていく。余談だけれど、アリストテレス『形而上学』で、数の問題にからんで差異と同一性の話が展開する13巻・14巻にどこかしら個人的に感じる違和感も、そういう困難さとつながっていそうで……。

投稿者 Masaki : 23:43

2004年10月20日

ルーマンの宗教論って……

このところ忙しかったのだけれど、ようやく少し息継ぎ。そんな中、合間にちょこちょこと目を通しているのが、ニクラス・ルーマンの『社会の宗教』("Die Religion der Gesellshaft", Suhrkamp Verlag, 2000)。組織論的な観点から宗教にアプローチするというのが興味をひく。本当はもう一冊の『宗教の機能』を先に読むべきなのだろうけれど、あわよくばシステム論の骨子も一緒にかじっちゃえ、という感じで、こちらを優先した……つもりなのだけれど、うーん、この判断はどうだったのか(笑)。まだ3分の1しか進んでいないものの、やたらに抽象論で、具体的な事象への言及があまりないせいか、決してややこしい話ではないように思うのだけれど、進みが遅い。こういう理解でいいかどうかわからないけれど、簡単に言えば、他から自己を隔てる意味論的な差異が、二項対立的なコード化によって、再投入されて強化・拡大されていくもの、というのがシステム論的な集団組織の定義。で、宗教にもそれはあてはまるという話。そうすると集団組織としての宗教はコードの特殊性に帰着するということになる。ならばそれを掘り下げていけばよい……うーん、ただそうなると、ちょっと身も蓋もない定義になってしまう感じもするのだけれど、どうなのだろう?こうした組織論的な宗教の捉え方は、どこか乾燥した砂漠の風景を思わせるのだけれど……。まだ途中だし、別の著書もあるけれど、果たしてその先に、豊かな緑地を切り開いているのかしら?

久々のLiveCamシリーズ:ミュンヘン、2004年6月7日:
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投稿者 Masaki : 23:37