7世紀のビザンツ世界を代表するギリシア教父、証聖者マクシモスの思想を扱った、谷隆一郎『人間と宇宙的神化』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ最初の3章ほどだけれど、これはなかなかに重要という気がする。エマニュエル・ファルク『神・肉体・他者』も相変わらず読んでいるのだけれど、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナを扱った章(第二章)で、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの否定神学をラディカル化するエリウゲナは、一方で同じく翻訳を手がけたマクシモスの影響により、神の否定性を人間にまで拡張し、結果的に偽ディオニュシオス的な神と人との無限の距離を、模範論的な類比で「修正」する、とされている。ファルクは、エリウゲナにおいていわば「否定」が反転して「肯定」となる様を、エリウゲナのテキストから鮮やかにすくい取ってみせているのだけれど、どうもそこで取り上げられる論点は、マクシモス(あるいはもっと広くギリシア的伝統)の議論に予想以上に多くを負っている感じがする。
たとえば『人間と……』では、マクシモスのピュシスについての基本理解として、諸処のものごとはそれ自身の目的に促される動きにおいてあるとされ、その目的とは自足する原因なきもの、すなわち神だとされる。そこでは神もまた「不受動で活動的な働き」だと言われ、対する被造物の動きとはこの場合、生成(創造)と究極の目的との両極の中間とされる。一方、ファルクによれば、神(テオス)について語源から検討しようとするエリウゲナは、そこに「見る」(テオロー)と「走る」(テオー)の二つの意味を重ね、後者についての考察において、動く者としての神と、それによって統合される「動くもの」としての被造物を考えているという。神が「走る」とは、神がおのれ自身のうちにおのれを横切り、「両極」を繋ぐことであるとされている。うーむ、このあたり、実に見事にオーバーラップするでないの。
谷氏のその著書は、マクシモスの思想を体系的に扱っているので、もしかするとそれを参考に、エリウゲナのテキストとの照応関係をリストアップするなどしたら面白いかもしれない。とすれば、まずはやはりエリウゲナの主著『自然について』をちゃんと読んでみないと(笑)。