「存在する」は行為なり?

先のジルジェンティの『ポリュピュリオスの特徴的思想』も中盤を超えて佳境(?)にさしかかったところ。中盤では、「パルメニデス注解」の現存する断章をポルピュリオスのものと特定したピエール・アドの議論をベースに、思想内容からその確認をし、ここから「一と存在」「存在と存在者」「知性」「三幅対」などのテーマの詳述に入っていく。ちょっと面白いのは、「ポルピュリオスが西洋思想史の流れの分岐点に位置づけられる。というのも、哲学史上初めて、存在する(essere)という動詞が行為として概念化され、その純粋な行為が第一原因と同一視され、と同時にそれが一者と存在の漸進的同化を準備したのだ」というくだり(p.219)。actus essendiというときのactusを単純に「現実態」と訳すことへの違和感は以前にも記したことがあったけれど、やはりそこには行為というか働きというか、そういう動的な意味合いが入っていることを確認させてくれる一節。うーむ、現実態=行為としての存在論は、先日のマクシモスの存在論なども含め、はるか後裔にまで連綿と継承されていくようだけれど、その嚆矢はポルピュリオスにありということなのか?けれどもちょっとこのあたり、テキストでの検証が物足りない感じもするのだが……。