久々に青土社の『現代思想』誌(7月号)をめくる。特集は「人間と動物の分割線」。なんだ、基本的にはデリダ関連の特集なのね。昨年秋にフランスで刊行されたデリダ晩年の講義録『獣と主権者』を受けての特集となったらしい。同書は未読だけれど、結構面白そうだということがこの雑誌の収録論文から伝わってくる。うん、同誌に限らず昔の思想誌にはそういうドライブする感じがあったよなあ、としみじみ。ま、それはともかく。
ぱらぱらとめくってみた程度だけれど、バスルームで素っ裸の状態で、飼い猫と目線が会ったときの気恥ずかしさについてデリダが語っているという話が、いくつかの論考に出てくるようだ。たとえば、晩年のデリダの動物愛護に、本来の人間中心主義批判と食い違うのではないかとの問いを掲げ、それを人間のもとにある動物的な生の問題圏(生政治)に回収しなおそうという論文(宮﨑裕助「脱構築はいかにして生政治を開始するか)や、上の気恥ずかしさを単一ではない(複数の)絶対的他者(猫もまた神々しい他者そのもの)への責任論として、あるいはその他者のために他の他者を犠牲にせざるをえないという供犠的構造の議論として読み、デリダが何度か考察しているというイサク奉献の読解へとつないでいくもの(郷原佳以「アブラハムから雄羊へ」)など。うーん、その「気恥ずかしさ」の話のミソはやっぱり素っ裸というところなんでしょうね。ジャコブ・ロゴザンスキーの論考(「屠殺への勾配路の上で」)から借りるなら、人間性と動物性とのある種の連続性を探るアリストテレスと、動物は似姿ではなく痕跡(vestigium)として神に似ている以上、あくまで人間の下位におかれるのだとするトマス・アクィナスとの、まさに狭間に置かれるという経験か(笑)。ロゴザンスキーが示してみせる第三の道は、ヒンドゥー教にインスパイアされた、動物を神聖視するというトーテミズムの古層への「回帰」(ある種の)なのだけれど、これなどはまさしく、上の二論文が示す他者への責任論、生政治論へと重なってくる。なかなかに刺激的(笑)。
……でも、こう言うと顰蹙かもしれないけど、素っ裸で飼い猫と目があっても、個人的には気恥ずかしいとは思わない気がする……。うーむ、これは困ったことだ。前提が共有できないじゃないの。求められる神経の繊細さが一段も二段も違うのか?とするなら、哲学の途はかくも長く厳しいのか?ま、とりあえずは、そのうち読んでみるとしよう、『獣と主権者』。