カフカ祭り?

先週末にNHKで放映された舞台「バーコフ版『変身』」を録画で視る。3月にパルコ劇場で上演されたものらしい。これ、虫になったザムザの表現がむちゃくちゃすごくて、ホントに虫みたいに見える。演じるのは森山未來。原作の基本線をちゃんと追っている見事な舞台。カフカ原作の舞台化とか映像化とか、昔は難しいとか言われていたと思うけれど、こうしてみると、いろいろ可能性はありそうな気がする。もっとも、多くの場合、原作へのある種の「忠実さ」を追求すると、不条理さ加減ばかりが前面に出て、原作がもっているように思える(?)軽さのような部分が殺がれてしまう気はするけれど……。前に見たミヒャエル・ハネケの『カフカの「城」』などはまさに「忠実な」映像化で、未完の原作どおりにいきなりブチッと切れるように終わってしまう(ネタバレ御免)。しばらく前に入手してちびちび見たりしていたダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブの『階級関係 – カフカ「アメリカ」より』もそんな感じ。どちらもそれなりに面白くはあるのだけれどね。だいぶ昔に見たオーソン・ウエルズの『審判』とか、すっかり忘れているけれど、なにかそれらとはまた別の「忠実さ」だったような気もするのだが……。うん、確認も含めてそのうちまた見てみよう。

そういえば、先日挙げたマッキンタイアの『美徳なき時代』に、カフカ作品の「未完」性にコメントを付けている箇所があった。自分が役割を演じている限り理解可能であり続ける共同体の中の物語は、理解不可能な挿話で構成された話に変形されることがあるとして、『審判』と『城』の作中世界が挙げられている(それってちょっと微妙な読みだけれど)。その上で「カフカが自分の小説に終止符を打てなかったのは、なんら偶然ではない。<終了する>という観念は<始める>という観念と同じく、理解可能な物語を基にしてのみ意味をもつからだ」(p.261)とまとめている。ま、カフカの描く世界が語りの一貫性の崩壊世界であるというのはそれなりに納得できるけれど、そういう崩壊世界に人が惹きつけられるようなこと(だからこそ、様々な舞台化・映像化もあるわけで)は、そこからは理論的に導かれないようにも思われるのだけれど……?