引き続き、ヨハネス22世とフランシスコ会士による、所有権をめぐる議論についての別論文を見る。今度のはジョナサン・ウィリアム・ロビンソン『オッカムのウィリアムの初期所有権理論』(Robinson, Jonathan William, William of Ockham’s Early Theory of Property Rights: Sources, Texts, and Contexts, University of Toronto, 2010)というもの。これも博論で長いので、とりあえず序文を見ただけ。でもすでにしてこの所有権をめぐる両者の応酬の複雑さが窺える。著者は教皇側の文書(教書)と、フランシスコ会派の応酬文書とを年代順の表にまとめているほか、その概要を序文で記している。それはざっとこんな感じ。教皇が『Ad conditorem』(1322年12月)を著す以前に、福音書の清貧、あるいはフランシスコ会派の清貧の考え方について多くの文献が書かれていて、教皇は教書『Quia nonnunquam』(1322年3月)では教会会議での議論を促そうとさえしているという。で、その『Ad conditorem』では、ベルガモのボナグラティア(1265〜1340)によるキリスト・使徒の清貧論など、多くの文献の議論が取り上げられているという。ボナグラティアはこれに反論の訴状を示すものの(1323年1月)、結果的にこの人物は収監され、『Ad conditorem』は書き改められて新版となる(1323年1月)。その後、教皇は『Cum inter』(1323年11月)を著し、今度は福音書の清貧問題を論じる。
前にオッカムがらみでの所有権論の話を見たけれど、これに関連して、その論敵でもあったヨハネス22世の所有権論を詳細に論じた博論(PDFで公開されている)を、部分的に眺めているところ。メラニー・ブラナー『教皇ヨハネス22世とフランシスコ会の絶対的清貧の理想』(Melanie Brunner, Pope John XXII and the Franciscan Ideal of Absolute Poverty, University of Leeds, 2006)というもの。その所有権論には様々な要素が絡んでいるようなのだけれど、同博論は割と手際よく(?)捌いている印象だ。ヨハネス22世の論じる所有権論はあくまでも清貧論としての聖書解釈に力点が置かれているようで、基本的なスタンスはトマス・アクィナスの流れを汲み、どちらかといえば現実主義的な路線であるとのこと。完徳にいたるには、清貧よりもむしろ慈悲のほうが重要だとする立場であるらしく(これがもとはトマスの立場)、このあたりは、清貧が完徳の十分条件であるとするボナヴェントゥラと実に対照的。ヨハネス22世は清貧と完徳との関係を直接論じてはおらず、あくまで清貧が魂の不安を取り除く方途だとして、その不安(sollicitudo)の問題を前面に出して論じているのだという。やはりフランシスコ会士だったチェゼーナのミカエル(1270-1342)などは、キリストにおける清貧の完徳は所有に付随する不安を排しており、キリストはかくして私的な所有権をいっさいもたず、ここからdominium(所有権)と使用権を分けて考える可能性が示されていたというが、ヨハネス22世は、その場合の清貧の完徳はキリストの魂の状態を示しているのであって、非所有ではなく世間的な財への侮蔑こそが完徳を示す徴なのだとし、それを福音的清貧と呼んで、必ずしも消費財の所有(dominium)を排除するものではないと論じている……と。
またまた溜まった未読PDFの山(推定上の)を、連休期間中に少しばかり片付けようと考えているところ。でもなかなか進まない(苦笑)。とりあえず、ジョン・マクギニス「中世アラビアの、瞬間の運動についての分析:流れる形相/形相の流れ論争へのアヴィセンナの出典」(Jon McGinnis, A medieval Arabic analysis of motion at an instant: the Avicennan sources to the forma fluens/fluxus formae debate, British Journal for the History of Science 39(2), 2006, pp.1-17)という論考に目を通す。中世盛期の自然学の一大問題だったという「運動」概念。アリストテレスの考えたどの範疇に運動が分類されるのかというのがその難問だったというが、ラテン世界ではとくに運動と形相の関係が問題になり、運動はforma fluens(流れる形相)かfluxus formae(形相の流れ)かという議論になったのだという。これらはアルベルトゥス・マグヌスが運動概念を整理する中でまとめているという。運動を目的因から見る場合、それは「完全なもの」になる途中の段階と見なすことができるというわけなのだけれど、その際に最終的状態を運動概念に含めるか、それともあくまで運動は途上の手段にすぎないかで見解が分かれる。前者の立場を取ると、最終的状態はいずれかの範疇に属するので運動はその最終状態の範疇に分類される。また、運動はその過程と到達点を両方含み、両義的な概念となる。これがforma fluensの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴェロエスに帰している。後者の立場を取ると、運動は過程でしかないのでどの範疇にも属さないものになってしまう。運動概念は一義的になる。これがfluxus formaeの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴィセンナに帰している。