ピエタの歴史?

15世紀ごろのフランドルの画家ジャン・マルエルの絵画をルーヴル美術館が買い取った話が、この間フランスのニュース(France2)で取り上げられていた。これ、オーヴェルニュの小村の主任司祭が暖房設備の新調(だったっけ?)費用を捻出するためにタダ同然で売り払ったという話なのだけれど、古物商を介してルーヴルは780万ユーロでお買い上げなのだとか。こちらの記事によると、「聖ヨハネと二人の天使がいるピエタ」というのがその作品名。ピエタというと十字架降架後の場面だが、これがいつごろから絵画の伝統になったのかが気になって、とりあえずざっとネットを検索してみる……と、すぐに引っかかるのがこちらのページ。これは素晴らしい解説。それによると、こうした形象についての教会の文献的な根拠というのはなく、ボナヴェントゥラなどは民衆の信仰心に帰しているのだとか。とはいえ、次のような流れがあるのだという。聖書外典のニコデモ福音書に暗示されている、降架後の息子を抱きしめたいとマリアが思ったという話が、9世紀のニコメディアのグレゴリオス、10世紀のシメオン・メタフラストスを経て、マリアがその思いを成就したという話になり、やがてそれは敷衍される形で広まり、マリア信仰が高まる12〜13世紀ごろになると、アンセルムスのおそらくは『真理についての対話』、偽ボナヴェントゥラ『キリストの生涯についての瞑想』などが典拠となって、そうした精神性に、より世俗的・視覚的な表現が与えられることになった……と。さらに同ページには14世紀からの表現の伝統もまとめられていて参考になる。

そういえば個人的に、ニコデモ福音書の仏訳本が読みかけのまま積ん読になっていたなあ……と反省する(苦笑)。

↓ジャン・マルエルというと、こちらの「円形の大ピエタ」が有名らしい。これもルーヴル所蔵。

ヨハネス22世vsフランシスコ会士たち

引き続き、ヨハネス22世とフランシスコ会士による、所有権をめぐる議論についての別論文を見る。今度のはジョナサン・ウィリアム・ロビンソン『オッカムのウィリアムの初期所有権理論』(Robinson, Jonathan William, William of Ockham’s Early Theory of Property Rights: Sources, Texts, and Contexts, University of Toronto, 2010)というもの。これも博論で長いので、とりあえず序文を見ただけ。でもすでにしてこの所有権をめぐる両者の応酬の複雑さが窺える。著者は教皇側の文書(教書)と、フランシスコ会派の応酬文書とを年代順の表にまとめているほか、その概要を序文で記している。それはざっとこんな感じ。教皇が『Ad conditorem』(1322年12月)を著す以前に、福音書の清貧、あるいはフランシスコ会派の清貧の考え方について多くの文献が書かれていて、教皇は教書『Quia nonnunquam』(1322年3月)では教会会議での議論を促そうとさえしているという。で、その『Ad conditorem』では、ベルガモのボナグラティア(1265〜1340)によるキリスト・使徒の清貧論など、多くの文献の議論が取り上げられているという。ボナグラティアはこれに反論の訴状を示すものの(1323年1月)、結果的にこの人物は収監され、『Ad conditorem』は書き改められて新版となる(1323年1月)。その後、教皇は『Cum inter』(1323年11月)を著し、今度は福音書の清貧問題を論じる。

次いでこれに神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が参戦し(1324年)、さらにチェゼーナのミカエルがアヴィニョンから訴状を複数出す。ロングバージョン、ショートバージョンがあるピサの訴状などだ(1328年)(この間、ボナグラティア、ミカエルのほか、マルキアのフランシス、オッカムといった関係者たち4人が、1328年6月に破門されている)。教皇はそのショートバージョンに『Quia vir』(1329年)で対応し、さらにマルキアのフランシス、ミカエルが反論を記し、そしてオッカムが『90日の書』を著す(1332年)。ミカエルはヨハネス22世の議論の誤りを突く戦法、フランシスはピサの訴状を擁護する形、さらにオッカムもフランシスの方法を真似ているという。うーむ、こうして見ると(ま、実際の文献を見たわけではないのでナンだけれど)、最初はどこかオープンな構えだった教皇が、相手側の反応を受けて態度を硬化させていく感じが窺えるような気がする……。

ヨハネス22世の清貧論

前にオッカムがらみでの所有権論の話を見たけれど、これに関連して、その論敵でもあったヨハネス22世の所有権論を詳細に論じた博論(PDFで公開されている)を、部分的に眺めているところ。メラニー・ブラナー『教皇ヨハネス22世とフランシスコ会の絶対的清貧の理想』(Melanie Brunner, Pope John XXII and the Franciscan Ideal of Absolute Poverty, University of Leeds, 2006)というもの。その所有権論には様々な要素が絡んでいるようなのだけれど、同博論は割と手際よく(?)捌いている印象だ。ヨハネス22世の論じる所有権論はあくまでも清貧論としての聖書解釈に力点が置かれているようで、基本的なスタンスはトマス・アクィナスの流れを汲み、どちらかといえば現実主義的な路線であるとのこと。完徳にいたるには、清貧よりもむしろ慈悲のほうが重要だとする立場であるらしく(これがもとはトマスの立場)、このあたりは、清貧が完徳の十分条件であるとするボナヴェントゥラと実に対照的。ヨハネス22世は清貧と完徳との関係を直接論じてはおらず、あくまで清貧が魂の不安を取り除く方途だとして、その不安(sollicitudo)の問題を前面に出して論じているのだという。やはりフランシスコ会士だったチェゼーナのミカエル(1270-1342)などは、キリストにおける清貧の完徳は所有に付随する不安を排しており、キリストはかくして私的な所有権をいっさいもたず、ここからdominium(所有権)と使用権を分けて考える可能性が示されていたというが、ヨハネス22世は、その場合の清貧の完徳はキリストの魂の状態を示しているのであって、非所有ではなく世間的な財への侮蔑こそが完徳を示す徴なのだとし、それを福音的清貧と呼んで、必ずしも消費財の所有(dominium)を排除するものではないと論じている……と。

「すりかわり」と作り話

今うちにいる認知症の老母は、昔からモノの所有にやたらと執着するところのある人だったのだけれど、40代の中盤あたりだったろうか、自分の持ち物がいつの間にかすりかわっているという妄想につきまとわれた一時期があった。タンスの引き出しに修理した跡を見つけると「こんな場所に修理の跡なんかなかった。誰かがタンスをすり替えたのだ」などとのたまい、押し入れの服を引っ張りだしては「こんな貧相な服は買ったことがない。誰かがすり替えたのだ」などと訴える。きまって、その誰かというのは本人が快く思っていない親戚筋の人たちだった。ときには、犯行の手口(ありえないような)までいろいろと説明づけようとしてみせた。なかなか強烈な妄想だったようで、子ども(つまり私だが)の前でも平気でそういうことを口走っていた。幼心に「これって病気?」と思ったことを覚えている。当時本人がどういう問題を抱えていたのかは正確にわからないのだけれど、そのときはなにやらモノへの執着の裏返しのようにも感じられたものだった。そうこうするうちに症状は落ち着き、そういうことを言わなくなったのだけれど、それから30年ほど経って、老母が認知症になりかけのある時期、そのすりかわり妄想はいっそう強烈になって蘇った。以前仲良くつき合っていたマンションの管理人夫婦が、この上ない悪者に仕立て上げられてしまったのだ。これはもう、当の管理人夫婦にはお気の毒としか言いようがないほどに……。

なんでこんな話をしているかというと、所有をめぐる哲学的考察集を思うところあって読み始めたのだけれど、その大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000)所収の「所有と固有」(鷲田氏)のなかに、この「すりかわり」の症状の話が出てきたからだ。で、そこでは「すりかわり」が、「所有したくないのに所有せざるをえない」苦境からの一種の解決策であり、またモノの同一性に対する信頼の喪失のあらわれであるといった話が、長井真里『内省の構造』からの引用として示されている。老母のケースでは、所有していたものが劣化した、あるいは所有していたはずの本来のものが失われているという形ですりかわりが発現している。で、失われたその本来のものは誰かが所有しているという話になり、そのためにすりかわりは誰かの犯行だとされ、「犯人」が問題になってしまう。与えられているモノを自分のものとして受け入れられない、自分のモノを自分のモノとして体験できない、というのは同書のいう通りなのだけれど、老母の事例では、それをなんとか解消しようとしてなのか、犯行・犯人をめぐる妄想のストーリーが長々と繰り出されていく。ときには、まるでストーリーを語りたいがためにモノの同一性をあえて否定しているのでは、とすら思えるほどに……。うーん、そのあたりはどうなのだろう。今思い返してみるに、認識錯誤と作り話はほとんど卵と鶏のように両輪一体化していた気がするのだが……。『内省の構造』もぜひ見てみよう。

forma fluensとfluxus formae

またまた溜まった未読PDFの山(推定上の)を、連休期間中に少しばかり片付けようと考えているところ。でもなかなか進まない(苦笑)。とりあえず、ジョン・マクギニス「中世アラビアの、瞬間の運動についての分析:流れる形相/形相の流れ論争へのアヴィセンナの出典」(Jon McGinnis, A medieval Arabic analysis of motion at an instant: the Avicennan sources to the forma fluens/fluxus formae debate, British Journal for the History of Science 39(2), 2006, pp.1-17)という論考に目を通す。中世盛期の自然学の一大問題だったという「運動」概念。アリストテレスの考えたどの範疇に運動が分類されるのかというのがその難問だったというが、ラテン世界ではとくに運動と形相の関係が問題になり、運動はforma fluens(流れる形相)かfluxus formae(形相の流れ)かという議論になったのだという。これらはアルベルトゥス・マグヌスが運動概念を整理する中でまとめているという。運動を目的因から見る場合、それは「完全なもの」になる途中の段階と見なすことができるというわけなのだけれど、その際に最終的状態を運動概念に含めるか、それともあくまで運動は途上の手段にすぎないかで見解が分かれる。前者の立場を取ると、最終的状態はいずれかの範疇に属するので運動はその最終状態の範疇に分類される。また、運動はその過程と到達点を両方含み、両義的な概念となる。これがforma fluensの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴェロエスに帰している。後者の立場を取ると、運動は過程でしかないのでどの範疇にも属さないものになってしまう。運動概念は一義的になる。これがfluxus formaeの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴィセンナに帰している。

アルベルトゥスは、アリストテレスの10の範疇以外の範疇を想定するようなことがあってはならないとして後者に反対する。また、時間と運動をめぐるより深い哲学的議論がその批判の底流をなしてもいるらしい(表題の「瞬間」における運動をめぐるアポリア)。けれども、と同論考は言う。実はここにアルベルトゥスの誤謬があって、実はアヴィセンナは、運動は一義的な概念だが、それはどの範疇にも属さないのではなく、あらゆる範疇に関係するものなのだと論じているのではないか、アヴィセンナは運動の形相がほかの付帯的・一般的形相と同様に実体に帰属していると考えているのではないか、と。ちょっと端折ってしまうけれど、アヴィセンナは「完成(エンテレケイア)」を二種類に分け、潜在態から最終的な完成形までの中間状態を「第一のエンテレケイア」、最終的な完成状態を「第二のエンテレケイア」とすることによって、各瞬間での運動概念を救いだし、さらには時間の各中間点を極限点として考えることで、瞬間における運動の存在をも肯定することに成功しているのだという。

↓Wikipediaより、アルベルトゥス・マグヌスの肖像。トマソ・ダ・モデナによるフレスコ画(1352年ごろ)、トレヴィーゾのサン・ニッコロ修道院