レヴィナスの他者論

村上靖彦『レヴィナスーー壊れものとしての人間』(河出ブックス、2012)を読む。この著者の、言語化以前の層を現象学的に探るというテーマの源泉が、レヴィナスにあることを改めて知る。なるほど、レヴィナスの根本は、圧倒的な暴力的無化を表すらしい「ある」(存在)を前に、あまりに無意味な自己をどうすれば意味化に転じさせることができるかを問い詰めることにあるという。そのため、まさしく意味の手前、言語化の手前が問題にされるわけだけれども、そこはまさに従来の(レヴィナス以前の)哲学が手つかずのまま放置していた未踏の地。だからこそ、レヴィナスは手探りで進むしかなく、それを語る言葉も、通常の意味から離れた独特の意味を込めて使われるしかなくなる……と。かくして、一見すると何を言っているのかさっぱりわからないあの文章が成立する。そこに分け入る読者も、「女性」「住居」などなど、通常の意味とは違う仕方で(笑)その文章を読み解かなくてはならないというわけだ。しかも同一の言葉であっても、レヴィナスの思想の発展において意味合いが変わってくるものもあり、一筋縄ではいかない……というわけで、同書はそのための指針を示しそうとする試み。もとの難解なテキストをかみ砕いた労作だ。

それにしても、他者と最初に切り結ばれる関係性が、言語以前・非言語的な「コンタクト」(レヴィナスの言うところの「愛撫」)であるということをレヴィナスが喝破し、ある種転倒した他者論を構築しているというところが個人的には興味深い。「死体」にすぎない他者が意味を有する他人として現れるようになるには、まずそのコンタクトが必要だというわけだ。たとえばうちの認知症の親は、ときおり記憶が曖昧になるのだけれど(同居している息子である私のことを、私が不在のときなど、たまに三人称的に「男たち」と称したりするようだ)、別のときには何かを確かめるように、不自然なまでにちらちらとこちらにアイコンタクトを送ってくるときがある。もしかすると、消えていきそうな記憶(つまりは無化である「ある」が襲ってくるということだろう)に、こちらにコンタクトを取ることで必死に抗っているのかもしれない……。

ひげなし/ひげありのキリスト像

これも結構面白い論考。クロディーヌ・A・シャヴァンヌ=マゼル「民衆の信仰とひげのないキリストの像」(Claudine A. Chavannes-Mazel, Popular Belief and the Image of the Beardless Christ, Visual Resources, Vol.19, No.1, 2003)(PDFはこちら)。全体をまとめておこう。西欧のキリスト像の伝統には、ひげのあるキリストと、ひげのないキリストの二種類が大別できるとされる。どちらもかなり古くから(3世紀ごろから)あり、ひげのないものは古代神話のアポロンやディオニュソスに模され、永遠の若さを表しているのに対し、ひげのあるものはユピテルのような知恵の表象を意味している、などと言われてきた。古典的イメージの継承だというわけだ。また古い時代の神学者たちは、その二種類の像は、創造以前のキリストと受肉したキリストという二種類のキリストの本性に対応する、などと説明していたともいう。その二種類にアリウス派と正統派との対立を見る向きもあった。とはいえローマ教会自体は「キリストの顔は知りえない」というアウグスティヌスの見解を採択していて、どうやら「ひげあり/ひげなし」は結局教会の教義とは関係なく、神にはそれと知られる顔があってほしいという人々の願いを反映した、世俗文化的なものでしかないらしい。

6世紀後半あたりになると、徐々に東ローマのほうで、長い黒髪とひげを湛えたキリスト像が優勢になっていき、偶像破壊運動の後に、イコンのキリスト像としてひげありのイメージがほぼ定着する。一方の西欧側はひげあり/ひげなしの混在状態がしばらく続く。これになんらかのパターンや意味合いがないのかが気になるところだけれど、同論考は一概には言えないことを具体例で示している。ひげなしも13世紀ごろまで普通に見られるようなのだけれど、一方で、「人の手によらない」キリストの像とされるもの、つまりエデッサのマンディリオン(記録があるのは10世紀ごろ)や、ヴェロニカのヴェール(記録は12世紀)、さらにトリノの聖骸布(記録は14世紀)などを通じて、東ローマに倣う形でひげありのイメージがほぼ定着していく。そんなわけで同論考は、世俗の伝説などが原型を作り上げていく(教会はというと、曖昧な立場を示しながら流れに追従していった)というプロセスを重視している。

ハンス・メムリンク《聖ヴェロニカ》、1470年ごろ(ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵)

イアンブリコスのテウルギー

ジェイソン・B・パーネル「キリスト教思想におけるテウルギー的転回ーーイアンブリコス、オリゲネス、アウグスティヌス、そして聖体」(Jason B. Parnell, The Theurgic Turn in Christian Thought; Iamblichus, Origen, Augustine, and the Eucharist, PhD Dissertation, University
of
Michigan, 2009
)という学位論文を読んでいるところ。イアンブリコスの唱えるテウルギー(神的秘術・白魔術)との比較でもって、ほぼ同時代(3世紀から4世紀)のオリゲネスやアウグスティヌスらの、とりわけ聖体論などを検証し直し、新プラトン主義とキリスト教とが思想的にいわば「地続き」であることを論証しようとする著作。ポイントとなるのは、両者の間に影響関係があったなどという従来的な狭い観点ではなくて、むしろ両者が同じ知的風土・思想文化を共有しつつ、その一種の「局在」「棲み分け」としてそれぞれが成立しているという、より広い観点を前面に打ち出していること。つまりは連続相で全体を見直そうということのようだ。まだ総論とイアンブリコスのまとめにあたる前半だけなのだけれど、すでにして随所にそういう主張が繰り返されている。

で、そのイアンブリコスについてのまとめがなかなか参考になる。本文ではかなり詳しいディテールが扱われているのだけれど、それらを割愛してしまうと、大まかな見取り図としてはこんな感じだ。新プラトン主義においてテウルギーの側面を強調したイアンブリコスは、先達のポルフュリオスなどから批判されるわけなのだけれど、そこにはコスモロジーをめぐる大きな対立点があった。新プラトン主義は一者からの流出として一元的に世界の構成を捉えようとするわけだけれど、プロティノスとその直弟子ポルフュリオスは、月下世界で魂と結びつく質料を悪しきものとし、その意味で魂・質料の二元論的な傾向を強めている(そのもとになっているのは『パイドロス』や『パイドン』での議論)これに対してイアンブリコスは、質料もまた善なるものとして創られているとして一元論を強調し(多少とも曖昧さは残るようだけれど)、魂の足枷というよりもその純化・上昇の媒介役をなす側面を強調する(もととなっているのは『ティマイオス』の議論)。したがって世界の秩序において最下層とされる物質的世界にあっても、その物質性を「用いて」魂は上位の世界へと回帰することが可能だとされる。そしてその方法論として構想されるのがテウルギーの体系だということになる。なるほどそういう観点からすると、プロティノスらが少数派的な魂の救済を唱えたのに対して、イアンブリコスはいわば大乗仏教よろしく、儀礼化して裾野を拡げようとしてるようにも思える。いずれにしても物質的に媒介される神性というあたりが、キリスト教と共通する基盤だと著者は見る。もっともキリスト教の側は、そこからみずからを峻別しようと躍起になるのだというのだけれど……。ちなみにオリゲネスの思想はもとよりイアンブリコスと親和的だといい、アウグスティヌスはレトリカルにはポルフュリオス寄りながらも、コアの部分ではテウルギー的な原理を保持している、という話が論文の後半部分で続いていくようだ。ちなみにイアンブリコス『エジプトの秘儀について』の英訳がこちらに

「ヴァントゥー山登攀」

ペトラルカの有名な書簡『ヴァントゥー山登攀』の仏訳本(Pétrarque, L’assension du mont Ventoux, trad. Jérôme Vérain, Mille et une nuits, 2001)がなぜか手元にある。積ん読になっていたのだけれど、そもそもなぜ注文したんだったか思い出せない……(苦笑)。本文20ページ強、解説や註を入れても50ページ強なので、難なく読了。この訳から得られる個人的な印象としては、史上初の登山の手記(と言われることもあるらしいけれど)という感じはあまりせず、むしろ神秘主義的な魂の飛翔のアレゴリーといった見方のほうがしっくりくる気がする。実際、この仏訳の役者ジェローム・ヴェランはそういう立場らしく、本文に続く解説部分では、この登攀が実際には行われず、手紙自体も(これが含まれている『親交書簡集』の多くがそうだというが)後から構成され推敲されたものである可能性があるとの見解を示している。風景描写は具体性を欠き、同伴者として登場する弟ゲラルドは、書簡が送られたとされる日付の7年後にシャルトル会修道士になるのに、ここに描かれたその像はすでに見事なキリスト教徒としてのそれだ、と訳者は指摘している。注で触れているところによれば、手紙に書かれているようにマロセーヌからヴァントゥー山頂上までは、山道で40キロほどもあるのだそうで、手紙にあるように一日で往復し、なおかつ晩に落ち着いて手紙を書けるような経路ではとうていないらしい(やにやら芭蕉の「奥の細道」の話を思い出す。そちらも、実は手記ではなく漢籍の引用に織りなされている作品だ、みたいな話があったっけね)。

「ヴァントゥー山登攀」については、邦語でも佐藤三夫氏による訳と、少なくとも論文の一つ「ペトラルカの「ヴァントゥー山登攀」について」(1981)がPDFで読める。この論文はいくつかの解釈の動向を整理したもので、それによると、「ヴァントゥー山登攀」が文献的な織物であって実際の手記ではないとする文献学的な説の嚆矢は、ジュゼッペ・ビッラノヴィッチという研究者だといい、後にそれに準拠した作品解釈がいろいろと試みられているという。佐藤氏の『ヒューマニスト・ペトラルカ』(東信堂、1995)もなにやら気になる書籍だ。

伝説の創成

キャロル・ヒレンブランド「西欧におけるサラディン伝説の進化」(Carole Hillenbrand, The Evolution of the Saladin Legend in the West, Mélanges Louis Pouzet, 2006)という論文を読む。十字軍との戦いを繰り広げ、ヨーロッパ勢からエルサレムを奪回したサラディンは、なぜか敵側のヨーロッパで英雄視され、後にそれを介する形でアラブ世界でも希有の英雄として再発見されることになるらしい(19世紀になってから?)。そのヨーロッパでの受容の変化を駆け足で辿ろうとするのがこの論考。サラディンはまず、エルサレム王国の歴史を記したギヨーム・ド・ティールの年代記において聡明で寛大な人物とされ、それに続く年代記作家の筆においても、敗北したキリスト教側への慈悲深さなどが称賛されていた。そのわずか2世代程度のタイムスパンで、サラディンの武勇伝を語る古仏語文献(年代記、騎士物語など)が登場し、さらに後のダンテによって例外的な高評価が与えられ、さらにボッカチオにも引き継がれる。論考はここでいきなり18世紀のレッシング、19世紀のウォルター・スコット卿によるサラディン評へと飛ぶ。いささか目まぐるしすぎる展開だけれど、個人的にはむしろこうした伝説というか、伝承の創成が気になるところ。これはテキストそのものを見ないとちゃんとはわからないけれど(この論考でも触れられていないが)、継承されていたなんらかの語りの枠組みにサラディンが合致した可能性があるような気がする……。

……そう思えたのは、もう一つ、イェルカ・レジェップ「コソボの伝説」(Jelka Ređep, The Legend of Kosovo, Oral Tradition, 1991)(PDFはこちら)という論文を最近見たせいかもしれない。コソボ紛争のときに報道などでも取り上げられていた「コソボの戦い」。これはセルビア側が激戦の末オスマン帝国に敗れた戦い(1389年)だけれど、これが14世紀末以降に伝説を生み、またセルビアのラザル侯が神格化され、18世紀には国民的英雄として崇拝の対象になる。で、論考はその伝説の具体的な初期のテキストをもとに、裏切りのモティーフなどが徐々に肉付けされていく様子を丹念に追っている。その中で、伝説がいったん口承(大衆の詩など)を挟むことで、たとえば1389年の戦いと1448年の戦いとが混同されていくといった現象が確認されるという。うーん、サラディン伝説についても、なんとなく個人的にはそのくらい細やかな分析を期待したいところ(ハードル上げすぎても問題だろうけど)。