これも結構面白い論考。クロディーヌ・A・シャヴァンヌ=マゼル「民衆の信仰とひげのないキリストの像」(Claudine A. Chavannes-Mazel, Popular Belief and the Image of the Beardless Christ, Visual Resources, Vol.19, No.1, 2003)(PDFはこちら)。全体をまとめておこう。西欧のキリスト像の伝統には、ひげのあるキリストと、ひげのないキリストの二種類が大別できるとされる。どちらもかなり古くから(3世紀ごろから)あり、ひげのないものは古代神話のアポロンやディオニュソスに模され、永遠の若さを表しているのに対し、ひげのあるものはユピテルのような知恵の表象を意味している、などと言われてきた。古典的イメージの継承だというわけだ。また古い時代の神学者たちは、その二種類の像は、創造以前のキリストと受肉したキリストという二種類のキリストの本性に対応する、などと説明していたともいう。その二種類にアリウス派と正統派との対立を見る向きもあった。とはいえローマ教会自体は「キリストの顔は知りえない」というアウグスティヌスの見解を採択していて、どうやら「ひげあり/ひげなし」は結局教会の教義とは関係なく、神にはそれと知られる顔があってほしいという人々の願いを反映した、世俗文化的なものでしかないらしい。
ジェイソン・B・パーネル「キリスト教思想におけるテウルギー的転回ーーイアンブリコス、オリゲネス、アウグスティヌス、そして聖体」(Jason B. Parnell, The Theurgic Turn in Christian Thought; Iamblichus, Origen, Augustine, and the Eucharist, PhD Dissertation, University
of
Michigan, 2009)という学位論文を読んでいるところ。イアンブリコスの唱えるテウルギー(神的秘術・白魔術)との比較でもって、ほぼ同時代(3世紀から4世紀)のオリゲネスやアウグスティヌスらの、とりわけ聖体論などを検証し直し、新プラトン主義とキリスト教とが思想的にいわば「地続き」であることを論証しようとする著作。ポイントとなるのは、両者の間に影響関係があったなどという従来的な狭い観点ではなくて、むしろ両者が同じ知的風土・思想文化を共有しつつ、その一種の「局在」「棲み分け」としてそれぞれが成立しているという、より広い観点を前面に打ち出していること。つまりは連続相で全体を見直そうということのようだ。まだ総論とイアンブリコスのまとめにあたる前半だけなのだけれど、すでにして随所にそういう主張が繰り返されている。
ペトラルカの有名な書簡『ヴァントゥー山登攀』の仏訳本(Pétrarque, L’assension du mont Ventoux, trad. Jérôme Vérain, Mille et une nuits, 2001)がなぜか手元にある。積ん読になっていたのだけれど、そもそもなぜ注文したんだったか思い出せない……(苦笑)。本文20ページ強、解説や註を入れても50ページ強なので、難なく読了。この訳から得られる個人的な印象としては、史上初の登山の手記(と言われることもあるらしいけれど)という感じはあまりせず、むしろ神秘主義的な魂の飛翔のアレゴリーといった見方のほうがしっくりくる気がする。実際、この仏訳の役者ジェローム・ヴェランはそういう立場らしく、本文に続く解説部分では、この登攀が実際には行われず、手紙自体も(これが含まれている『親交書簡集』の多くがそうだというが)後から構成され推敲されたものである可能性があるとの見解を示している。風景描写は具体性を欠き、同伴者として登場する弟ゲラルドは、書簡が送られたとされる日付の7年後にシャルトル会修道士になるのに、ここに描かれたその像はすでに見事なキリスト教徒としてのそれだ、と訳者は指摘している。注で触れているところによれば、手紙に書かれているようにマロセーヌからヴァントゥー山頂上までは、山道で40キロほどもあるのだそうで、手紙にあるように一日で往復し、なおかつ晩に落ち着いて手紙を書けるような経路ではとうていないらしい(やにやら芭蕉の「奥の細道」の話を思い出す。そちらも、実は手記ではなく漢籍の引用に織りなされている作品だ、みたいな話があったっけね)。
キャロル・ヒレンブランド「西欧におけるサラディン伝説の進化」(Carole Hillenbrand, The Evolution of the Saladin Legend in the West, Mélanges Louis Pouzet, 2006)という論文を読む。十字軍との戦いを繰り広げ、ヨーロッパ勢からエルサレムを奪回したサラディンは、なぜか敵側のヨーロッパで英雄視され、後にそれを介する形でアラブ世界でも希有の英雄として再発見されることになるらしい(19世紀になってから?)。そのヨーロッパでの受容の変化を駆け足で辿ろうとするのがこの論考。サラディンはまず、エルサレム王国の歴史を記したギヨーム・ド・ティールの年代記において聡明で寛大な人物とされ、それに続く年代記作家の筆においても、敗北したキリスト教側への慈悲深さなどが称賛されていた。そのわずか2世代程度のタイムスパンで、サラディンの武勇伝を語る古仏語文献(年代記、騎士物語など)が登場し、さらに後のダンテによって例外的な高評価が与えられ、さらにボッカチオにも引き継がれる。論考はここでいきなり18世紀のレッシング、19世紀のウォルター・スコット卿によるサラディン評へと飛ぶ。いささか目まぐるしすぎる展開だけれど、個人的にはむしろこうした伝説というか、伝承の創成が気になるところ。これはテキストそのものを見ないとちゃんとはわからないけれど(この論考でも触れられていないが)、継承されていたなんらかの語りの枠組みにサラディンが合致した可能性があるような気がする……。
……そう思えたのは、もう一つ、イェルカ・レジェップ「コソボの伝説」(Jelka Ređep, The Legend of Kosovo, Oral Tradition, 1991)(PDFはこちら)という論文を最近見たせいかもしれない。コソボ紛争のときに報道などでも取り上げられていた「コソボの戦い」。これはセルビア側が激戦の末オスマン帝国に敗れた戦い(1389年)だけれど、これが14世紀末以降に伝説を生み、またセルビアのラザル侯が神格化され、18世紀には国民的英雄として崇拝の対象になる。で、論考はその伝説の具体的な初期のテキストをもとに、裏切りのモティーフなどが徐々に肉付けされていく様子を丹念に追っている。その中で、伝説がいったん口承(大衆の詩など)を挟むことで、たとえば1389年の戦いと1448年の戦いとが混同されていくといった現象が確認されるという。うーん、サラディン伝説についても、なんとなく個人的にはそのくらい細やかな分析を期待したいところ(ハードル上げすぎても問題だろうけど)。