震災からまもなく2年というタイミングでなんだが、いろいろ思うところもあり、ジャン=リュック・ナンシー『破局の等価性(フクシマの後で)』(Jean-Luc Nancy, L’Equivalence des catastrophes : (Après Fukushima), Galilée, 2012)に目を通す。これ、すでに邦訳も出ているけれど(『フクシマの後で: 破局・技術・民主主義』、渡名喜庸哲訳、以文社)、それが出る前に原書を購入してあったので、そちらで読んでみた。副題が「フクシマの後で」になっているのだけれど、ここでの「後で」というのは、連続性よりは断絶、先取りというよりは宙吊りという意味合いだとされている。というのも、フクシマの事故が明らかにした(アポカリプスの原義だ)のは、原子力に関して本来は軍事利用も平和利用も区別などなく、ただ後付け的に文明論的な布置によって区別がなされている、ということだからだ。その技術がもたらす恐怖を前にすれば、両者はまさしく等価になってしまう。しかも、それらがもたらす結果の甚大さはあらゆる制御・廃棄の手段をはるかに凌駕してしまう。しかしながら人は、あくまで技術の改良などでその制御を図る以外に対応を考えられない。それほどまでに人は技術との相互依存関係に蝕まれていて、それなしには生きられない。そのことはなにも原子力にとどまらない。技術そのものの相互依存性もいやがうえにも錯綜し複合化し、技術が技術に取って代わるだけの「等価性の支配」があらゆるものを、あらゆる世界を覆い尽くしていく。もはや自然災害など存在しない。あらゆる災害は技術的災害、あらゆる破局は人為的な創造物の破局でしかない……。
こうした悪夢のようなヴィジョン(とはいえそれは既視感ありまくり(笑)の議論でしかないけれど)をどう打破するか。改良・改善、あるいは再生・新生といった考え方は、そもそも過去から未来へという時間軸でモノを考えるやり方だ。過去から一足飛びに未来の企図(目標)へ。そこでは現在が脱落している。改善や再生とは別の仕方で思考を練り上げるには、現在を思考の俎上に載せなくてはならない。それはすなわち、一般化した等価性に、「個的なもの」の不等価性を対峙させることにほかならないのだ、と……。なるほどこれは方途としてあまりに抽象的で弱々しい。でも、それをもっと具体的な案件へと肉付けしていくことを考えてみてもよいのかも。その意味では、これは指針の書にもなりうる(かな?)。たとえば、復興と称して行政が、地元のニーズを無視し、一方的・画一的に建設工事を進めるような事例に照らし合わせるなら(そうした話が、たとえば青土社の『現代思想』4月号(特集:大震災七〇〇日)の一貫したトーンになっているけれど)、さしあたり現時点でのそれぞれ異なる地元のニーズを細かく実現するような話として、具体的な在り方を思い浮かべられるかもしれない。もちろんナンシーが言うように人は技術から逃れられない。けれども、いかに絡め取られていようと、その網状結合の中で、不等価なものを拾い出して価値付け(嫌な言い方だけれど)していくことはできるかもしれない。そんなことを改めて考えていきたい。