朱子学・陽明学も

小倉紀蔵『入門・朱子学と陽明学』(ちくま新書、2012)をざっと読む。いわゆる宋学は成立の時代も一二世紀ごろだし、西欧の中世思想史との比較対象としても興味が湧く。とはいえ思想内容にせよ概念にせよ、ほとんど知らないことばかり。ま、逆にとても新鮮に感じられるのだけれど(苦笑)。当然というべきか、朱子学にしても背景に大きな世界観というかコスモロジーがあることが改めてわかる。また陽明学は一六世紀ごろということになるので、こちらもルネサンス期から近世に重なってくる。しかも朱子学にせよ陽明学にせよ、儒家の文献への注釈をベースにして構築されているという話で、そのあたりが新プラトン主義とか逍遙学派とか西欧の古典的伝統に通じるところもありそうに思えてくる……。

朱子学と陽明学の対比といったくだりも面白い。前者が実在論、後者が唯名論……というわけでもないようなのだが(一瞬そういう風にも見える)、とりわけ後者では心・物の二元論が排されているというあたりがまた興味深い。さらに「知行合一」(認識が即行為であるという)の説明では、アフォーダンスが引き合いに出されたりもする。しかも陽明学の知行合一の場合、主観と外部が連動しているため、外部のアフォードなんてものはなく(!)即主観的認識として成立している構造なのだという……(うーむ、たとえとしては面白いが……)。さらに朱子学が主知主義的であり、一方の陽明学がどこか主意主義的(「良知」なるものがあらゆる人に備わっていて、それは自己完結的に閉じている、のかな?そうだとすると、そのあたりは妙にモナドっぽいが……)らしいのも示唆的かもしれない。さらに末尾の方では、ヘーゲルのガイスト(精神というよりも霊だと指摘されている)論に言及している。著者は、霊の複数性を前提に共同で全知に近づこうとするのがヘーゲルの言う啓蒙なのだと喝破し、だがそれが絶対的知を想定していることにその限界があるとした上で、東アジアにおいてはオルタナティブな思想が輩出する余地があったのだと示唆している。つまり絶対知を想定せず、多数の者が発信するランダムな考えなどの中から、網の目のような関係性が現象し(ネット社会が引き合いに出されているわけだけれど)、その明滅にのみリアリティが宿るというものだという。同著者はそれが一種のユートピア思想でしかないのかもしれないといった但し書きを付けているように見える。とはいうものの、これなどは先の「集合知」の話などを絡めてみると、なにやら示唆的な気がしないでもない。