貴婦人と一角獣

先日≪貴婦人と一角獣≫展を見にいった。ずいぶん昔にクリュニーの中世美術館で見て、個人的には今回が三度目かな。どの美術品にしてもそうだけれど、毎回少しずつ印象が違う。今回はとにかく、遠路はるばるよくぞ来てくれたな〜という感じ。クリュニーの展示はただ壁面にぐるっと飾ってあるだけだったけれど、今回のこの展示会では本体を中央のスペースに、その関連展示や細部の解説などを周りに配して、見る側が両者の間を行き来できるようにしているのが心憎い。おかげで細部をじっくり味わうことができる。うーむ、まさしく細部こそが面白い。ついでながら『芸術新潮』の同展特集号も見てみた。注文主は誰かという点について、ル・ヴィスト家の当主(ジャン四世)ではなく、その従兄弟の子供で後に当主を受け継ぐアントワーヌ二世だとする説が、近年復活した有力説として紹介されている。そのアントワーヌが妻となるジャクリーヌに贈ったものという話で、なるほどなかなかの説得力ではある。

さらにネットで公開されている博士論文から、ブリュノ・フェデュッティ『一角獣のイメージと知識(中世末期から一九世紀)』(Bruno Faidutti, Image et Connaissance de la licorne – fin du moyen âge XIXme siècle, Univ. Paris VII, 1996)(PDFはこちら)というのを見てみた。一角獣にまつわる図像・文献を広範に渉猟した力作論文なのだけれど、当然ながらこれに≪貴婦人と一角獣≫の話も出てくる。というか、正確にはそのタイトル(おそらく後世に付けられたものだろうけど)の背景をなすような文学作品が取り上げられている。『一角獣に乗った貴婦人とライオンに乗った美しき騎士の物語』(Roman de la dame à la licorne et le beau chevalier au lion)というのがそれで、フランスの国立図書館に単一の写本でのみ残っている作品なのだとか。あまりの美しさに神が一角獣をもたらしたという貴婦人と、その女性を慕いつつ冒険を重ねてライオンを捕らえる騎士とが、すれ違いを繰り返し、最後には騎士が幽閉されていた貴婦人を解放して、それぞれ一角獣とライオンに乗って去って行くという話らしい(こうまとめてしまうと身も蓋もないが)。≪貴婦人と一角獣≫は、英語では「The Lady and the Unicorn」と表記されているけれど、フランス語では「La dame à la licorne」で、乗っているわけでもないのに「à la licorne」というのはどうしたわけかとか、あるいは一角獣とともにライオンが描かれているのはどういうことかとか(これは注文主のル・ヴィスト家がリヨンの家柄だからという話も、上の『芸術新潮』には出ているが)も含めて、いろいろな疑問の一端についての回答がもしかするとその物語にあるのかも(?)。これはぜひ見てみたい。同物語についての研究文献などの詳細がこちらにある。

朱子学・陽明学も

小倉紀蔵『入門・朱子学と陽明学』(ちくま新書、2012)をざっと読む。いわゆる宋学は成立の時代も一二世紀ごろだし、西欧の中世思想史との比較対象としても興味が湧く。とはいえ思想内容にせよ概念にせよ、ほとんど知らないことばかり。ま、逆にとても新鮮に感じられるのだけれど(苦笑)。当然というべきか、朱子学にしても背景に大きな世界観というかコスモロジーがあることが改めてわかる。また陽明学は一六世紀ごろということになるので、こちらもルネサンス期から近世に重なってくる。しかも朱子学にせよ陽明学にせよ、儒家の文献への注釈をベースにして構築されているという話で、そのあたりが新プラトン主義とか逍遙学派とか西欧の古典的伝統に通じるところもありそうに思えてくる……。

朱子学と陽明学の対比といったくだりも面白い。前者が実在論、後者が唯名論……というわけでもないようなのだが(一瞬そういう風にも見える)、とりわけ後者では心・物の二元論が排されているというあたりがまた興味深い。さらに「知行合一」(認識が即行為であるという)の説明では、アフォーダンスが引き合いに出されたりもする。しかも陽明学の知行合一の場合、主観と外部が連動しているため、外部のアフォードなんてものはなく(!)即主観的認識として成立している構造なのだという……(うーむ、たとえとしては面白いが……)。さらに朱子学が主知主義的であり、一方の陽明学がどこか主意主義的(「良知」なるものがあらゆる人に備わっていて、それは自己完結的に閉じている、のかな?そうだとすると、そのあたりは妙にモナドっぽいが……)らしいのも示唆的かもしれない。さらに末尾の方では、ヘーゲルのガイスト(精神というよりも霊だと指摘されている)論に言及している。著者は、霊の複数性を前提に共同で全知に近づこうとするのがヘーゲルの言う啓蒙なのだと喝破し、だがそれが絶対的知を想定していることにその限界があるとした上で、東アジアにおいてはオルタナティブな思想が輩出する余地があったのだと示唆している。つまり絶対知を想定せず、多数の者が発信するランダムな考えなどの中から、網の目のような関係性が現象し(ネット社会が引き合いに出されているわけだけれど)、その明滅にのみリアリティが宿るというものだという。同著者はそれが一種のユートピア思想でしかないのかもしれないといった但し書きを付けているように見える。とはいうものの、これなどは先の「集合知」の話などを絡めてみると、なにやら示唆的な気がしないでもない。

医療占星術への信頼?

モニカ・アッツォリーニ「星に健康を読む−−ルネサンス期ミラノの政治と医療占星術」(Monica Azzolini, Reading Health in the Stars – Politics and Medical Astrology in Renaissance Milan, Horoscopes and Public Spheres: Essays on the History of Astrology, vol. 42, 2005)という論文を読む。15世紀のミラノにおいて、医療占星術はどういった用いられ方をし、どう受容されていたのかを検討しようという論考。導入部分の掴みとして取り上げられている話がなかなかに興味をそそる。1492年にルドヴィーコ・イル・モーロ(スフォルツァ)は、教皇インノケンティウス八世の病状について占星術史のアンブロージョ・ヴァレージ(Ambrogio Varesi)に予言を依頼した。ヴァレージは教皇の死を予言し、教皇は日時的には前倒しで亡くなったものの、ルドヴィーコは別段その占星術の信頼性を疑うこともなく、一方で「次期教皇はスフォルツァ家に有利な人物になる」という予言に安堵さえし、さらに弟のアスカーニオもその予言を信じて政治的影響力を奮い、ロドリーゴ・ボルジアの選出(アレクサンデル六世)に一役買ったという……。

このように、日時占星術も歴史上重要な役割を担っていたことが窺えるというわけなのだけれど、論文はもう一つの宮廷占星術の中心とされる医療占星術を主に扱っている。そちらもまた、同時代的批判もあったものの、医者も患者も医療占星術を斥けるどころか、先端的な科学と見なされて信頼を得ていたらしい。パヴィア大学の医学部のカリキュラムは史料があまりないらしいのだけれど、論文著者はボローニャとの密接な関係から同じようなカリキュラムが採用されていたと推測している。学生はたとえばガレノスの『厄日について(De diebus criticis)』の三つの書を最初の三年間で学び、三年目と四年目では偽プトレマイオスの『ケンティロクイウム(Centiloquium)』、ギレルムス・アングリクスの『見えない尿について(De urina non visa)』などを占星術の訓練の一環として学んだのだろうという。さらに学生のノートには、多くのアラブ系の占星術文献からの一節が散見されるのだとか。論考はさらにパヴィア公の私設図書館の蔵書を取り上げ、最終的にミラノ公ジアン・ガレアッツォ・スフォルツァの病気と死について、同公がルドヴィーコやアスカーニオに宛てた書簡の分析を行っている。個人的に気になるのは、やはり同時代的にそれなりに存在していたらしい占星術批判だ。論文著者は注のところで、イタリアのエリート層や医師たちが実際にどの程度医療占星術を信頼していたかは、宮廷占星術のさらなる研究がなければ確証できないと述べた上で、医療占星術への批判を展開する著者がそれなりに多いことは、逆にその医療占星術がそれなりの人気を博していたことを示している、とも述べている。代表的な批判者として挙げられているのはピコ・デラ・ミランドラ、またさらに後の16世紀のフラカストロとトゥリニの論争なども言及されている。うん、いろいろチェックしてみたいところだ。

ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像(アンヴロジョ・デ・プレディス画)
ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像(アンヴロジョ・デ・プレディス画)

集合知問題

私用でまた田舎へ。今回は新幹線内で西垣通『集合知とは何か』(中公新書、2013)を読む。これは小著ながら問題提起を含む一種の起爆剤かも。新幹線での移動のかったるい時間をふきとばすにはまさに最適(笑)。序盤はネット時代の集合知にもとづく直接民主主義待望論を批判。アローの定理などが引き合いに出され、一般意志2.0などは安直すぎると斥けられる。中盤は心身問題を中心に、一人称的なクオリアと、三人称的な客観世界とを繫ぐものとしての集合知の可能性が論じられる。このあたりはオートポイエーシスやサイバネティクスの通俗的理解の批判を経て、階層化された閉鎖システム(たとえば閉鎖システムである個人同士の対話を、これまた閉鎖システムである第三者が観察し知として獲得していく)というモデルが提案される。それはさらに拡張(?)されて、システムと環境のハイブリッドという概念が検証される。そして終盤。ライプニッツ的なモナド同士の対話から、中枢となるモナドが自然発生するプロセスを再現しているらしい、西川アサキという人のシミュレーションが取り上げられる。もとは知覚器官から脳の中枢が練り上げられる仮定のシミュレーションだというそのモデルを、著者は社会のコミュニティにおけるリーダーの輩出という文脈に読み替える。で、そのシミュレーションからは、開放系よりも閉鎖系のほうがそうしたリーダーは輩出しやすく、しかも安定化するという意外な結果が導かれるのだという。開放系では外部環境に他律的に依存して、唯一のリーダー(独裁)からリーダーなし(アナーキズム)の状況まで揺れ動き、安定しないのだそうだ。

すべての知識をオープンに、という方向性は、社会集団)においては理想とはならないのではないか、という、現在のIT系の進む方向性に警鐘を鳴らそうというのが著者のここでの眼目だ(同シミュレーションは、モナド同士が相手の「信用度」を、自分がもつ知識への応答をもとに評価するという形で進んでいくらしい)。なるほど興味深い結果ではある。でも、このシミュレーションの精度などがよくわからないので、なにかこう判断に迷う感じが拭えない……。閉鎖・開放の度合いは現実世界では様々だろうし、各種の要因で大きく変化するだろうし。システム内部のメンバーには不正行為なども一定数存在したりして、とてつもなく複雑になっているはずだ。リーダーへの従属関係はメンバーの価値観の多様性を損なわない程度の「ほどほど」がよいとされるけれど、それがどの程度を意味するのか見極めるのも難しいところだろうなあ、と。さらに、脳と感覚器官の関係と、リーダーと集団メンバーの関係は本当にパラレルに考えてよいのか、という疑問もある。自然発生的には仮にそうした突出があるにしても、生体はそれを強固なプログラムで囲って崩れないようにしてしまうのだとしたら、もしそういうメカニズムが社会集団においても働きうるのだととしたら……なんて考えると空恐ろしい(苦笑)。個人的には素朴な疑問や妄想がいろいろ沸き上がってきて、その意味でもとても刺激的な一冊だ。