(雑記)猜疑心と暴走と

悪魔と裏切者: ルソーとヒューム (ちくま学芸文庫)このところ、空いた時間で山崎正一、串田孫一『悪魔と裏切者: ルソーとヒューム』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。ルソーとヒュームの感情のもつれが、こじれにこじれて決別にいたるプロセスを、刊行された書簡をもとにまとめたもの。文庫化のもととなった本は1978年刊だそうだが、それは再版で、初版は1949年とか。歴史を感じさせる。けれども内容的にはぜんぜん古さを感じさせない。というか、とてもアクチャルでさえある。ルソーの心にめばえたごく小さな猜疑心が、とてつもなく大きな悪をたぐり寄せるふうが、なんとも痛々しい。わずかな波紋がやがては情念の大波を形成し、そうなるともはや後戻りはできない……。最初はヒュームに同情的だった著者たちが(ご本人らも意外だったとコメントしているのだけれど)、やがてむしろルソーのほうに肩入れしていくあたりもとても面白い。常識人として描き出されるヒュームが、ルソーの巻き起こす情念のうねりからすると、とても矮小なものに見えてくる、と。それもまた、ルソーの放つ怪しい波動に絡め取られそうになる、ということなのかもしれないが……。

現代思想 2015年2月号 特集=反知性主義と向き合うルソーといえば、青土社の現代思想 2015年2月号 特集=反知性主義と向き合う所収の巽孝之「ニクソン政権下の脱構築」に、ポール・ド・マンのルソー論を紹介するための導入部分で、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言とされる神話化された一文が、もとはルソーによる捏造だったという話が取り上げられている。ルソーは盗んだワインを楽しむためにパンを欲しいと思ったものの、普通のパン屋に行くにはその時の身なりが良すぎたために、ブリオッシュを買うことにし、その言い訳のために、「さる高貴な王妃」が「パンがないならブリオッシュを食べればいいじゃない」とのたまったという話をでっち上げたのだ、と。出典は『告白』の第六巻。そこでの王妃はどうやらマリー・テレーズ(ルイ14世の妃)ではないかということなのだけれど、民衆の想像力を経ることで、この一文がマリー・アントワネットに結びつけられたのではないかという。この民衆的な想像力(都市フォークロア)もまた、おおもとの発信者を裏切り続ける一つの契機になっているわけだけれど、それもまた表面化でうごめく情念のうねりが引き寄せる歪曲という気がする(もちろんこの話自体は同論考の些末な部分でしかなく、全体としては、ルソーの別の「リボン事件」についてのポール・ド・マンの解釈を着想源として、ポーの『盗まれた手紙』の再解釈の可能性を示し、それが「盗む者」「盗み返す者」の責任転嫁・因果転倒のメカニズムを浮かび上がせていて秀逸)。

ちなみに同誌の論考やエッセイの中で、個人的に最もヴィヴィッドな印象を与えてくれたのは、森達也「歴史的過ちは、きっとこうして始まった」という一文。暴走が始まる契機としての「集団化」(群れるという現象だ)を、クメール・ルージュの暴走やアイヒマン裁判、9.11後のアメリカなどを引き合いに(さらには群れる動物の事例などにも言及しつつ)前景化しようというもの。全体の同調圧力に個は埋没していくしかないのか?なんとはなしに、「集団的なそうした暴走に、ルソーのような個的情念の暴走を突きつけてみたらどうなるだろう」なんていう妄想が思い浮かんだりする。

共義語の意味論

久々に、自立的(カテゴレーマ)意味と共義的(シンカテゴレーマ)意味の話。ちょっとややこしいものの、両者の違いは、たとえば「無限」概念で考えるとわかりやすい。実体的な「無限なるもの」を意味するのが前者の場合で、後者は、ある要素nがあったときに、常にn+1がありうることを意味する。ではほかの概念で見たらどうなのだろう、そこにはどんな意味論的な問題が絡んできたりするのだろうか……というわけで、アンナ・マリア・モーラ=マルケス「ダキアのボエティウスおよびラドゥルフス・ブリトによる普遍指示子論」(Ana María Mora-Márquez, Boethius of Dacia (1270s) and Radulphus Brito (1290s) on the Universal Sign ‘Every’, Logica Universalis, 2015)という論考を読んでみた。これは共義語の一つである、「あらゆる」を意味するomnis(英訳でeveryとされている)をめぐり、13世紀の論者たちの扱いにおける違いを二派の間で際立たせてみようという一篇。取り上げられるのは、一方がペトルス・ヒスパヌスとシャーウッドのウィリアム、それらとの対比をなすのが表題にもあるダキアのボエティウスとラドゥルフス・ブリト(ブルトンのラウル:13世紀後半にパリで活躍した文法学者。当時は影響力のあった人物とされる)。同論考によれば、前二者はomnisを普遍性を示す語ととらえ、それが修飾する名辞がなんらかの「本質」(類もしくは共通項)を表す限りにおいて、その名辞が複数化されていることを示す働きをもっていると考えた。で、当時盛んに議論された意味論上の問題となったのが、(1) omnisは共通項を「種」や「個」に分散しているのか、(2) omnisを用いた文が真となるには、共通項に三つないしそれ以上の、現実態として実在する例化が必要か(つまり単一ないし二つのものにはomnisは使えないか)、といった問題。シャーウッドやヒスパヌスの立場は、(1) 厳密には分散は普遍の範囲内なので、種どまりであり、数的な個には至らない、(2) 類が種に、さらに下位の種に、そして個へと分割されることから、例化の具体的な数にかかわらずomnisを用いた文は真でありうる(たとえば月や太陽のような単一のものにも、用いることはできる)というものだった。

両者は論理学的な分析で意味論へとアプローチするのだけれど、これがダキアのボエティウスやラドゥルフス・ブリトになると、分析の仕方はより統辞論的になるという。つまりomnisは名辞を形容する(複数化を表す)というよりも、文において名辞の存在様態を表すという扱いになり、共義的な側面がいっそう強調されるらしい。「あらゆる人間は走る」という文において、「あらゆる」は「人間」を量化するという以上に、「人間」と「走る」の間の関係性(属性)が普遍であることを示すもの、とされる。omnisが普通名詞に添えられることで、(1) 本質があらゆる個へと複数化されているという理解の様態が示唆され、そこですべての個との関係として普遍が示されることになる。すると、(2) 一つの例化があればそれで普遍を表す文が真であることを示すには十分だということになる(これはアヴィセンナの本質についての解釈に呼応する考え方だという)。例化についてはさらに、時制に絡む問題(例化は現在のほか過去や未来のものにも及ぶかなど)や、普遍文から個的な文への推論問題などもあるようで、同論考の末尾はそれらの詳述に当てられている。とくに後者では、文として考えた場合、omnisを用いる普遍文から個に関する文、あるいは単称文を推論として直接導くことはできないという逆接的な議論(!)が、ボエティウスとブリトによって示されている。

知覚と錯覚

今回の日本人人質事件。最初に二人の人質の映像が出たときに、メディアでは直後からその映像が合成かどうかが問われたりして、どこか違和感を覚えずにはいなかった。「信憑性」がどこかではき違えられているような感じというか……。二人が拘束されたという事象的な信憑性と、映像がその確たる証拠をなしているのかどうかという信憑性は、本来は当然ながら別次元として区別されるわけだけれど、事件の報道の中では、どこかそれらが微妙に曖昧に交錯した印象を与えた(気がする)。あれは何だったのか。その後、最悪の結果に終わった事件だが(これもまた「最悪の結果に終わったとされる」と括弧付きにしたい気分にさせられる。相手と没交渉だった政府が、遺体確認すらなされないことを明言したからだが)、そこでの没交渉の姿勢もまた、テロリストとは交渉しないとか、テロには屈しないとかの文言の意味が、本来の戦略的意味からどこか微妙にずれている印象を与えているように思われる。全体としてこの事件においては、テロリスト側から発せられるメッセージも、あるいは政府側が発し相手側が受け取ったであろうメッセージも、どこか始終曖昧で、意味が不明もしくはズレた形で相互に伝わっている(ように見える)。つまりそれは、メッセージの受信や知覚、認識(翻ってその発信についても)の問題を大きく突きつけたということだ。広報戦略とかメディアだけの問題ではない。また個別事例だけで考えればよい問題でもないように思える。きな臭い空気がいや増すなか、知覚や認識を取り巻く環境にも霧(……なんて生やさしいものではないかもしれない)が立ちこめ始めているようで、何やら落ち着かない。


さしあたり、情勢的なものからは離脱した上で、そのあたりの問題を捉え直したいところだ。そもそも単純な知覚の信憑性からして問題は根深い。以前のエントリーで取り上げたダラス・デネリーの論文では、ペトルス・アウレオリの議論(直観的認識を対象の有無ではなく、体験ベースで定義する)を敷衍すると、あらゆるものが疑わしくなり、社会生活そのものが成り立たなくなるとして、オートレクールのニコラは、「存在しているように見えるものは存在するのだ」という肯定的テーゼをあえて掲げてみせた(もちろん人間の誤謬性から、それなりの条件つきではあるけれど)のだった。けれどもそれで問題が片付くわけではもちろんない。

知覚の哲学入門信憑性をめぐるアポリアは現代でもなお生きている。そんなことを改めて感じさせるのが、ウィリアム・フィッシュ『知覚の哲学入門』(山田圭一監訳、勁草書房)だ。同書は分析哲学が突き進んだ認識論的なターンについての教科書で、センス・データ説(これなどはいわば中世のスペキエス(可感的形象)論の焼き直しのようでもあり、また上のアウレオリの体験ベースの認識論の継承のようでもある)を中心に、それに補完・反駁・発展を加える内在論の諸説を整理し、コンパクトに紹介している。副詞説(知覚対象の諸性質を、知覚の様態として捉え直す)、信念獲得説、志向説、選言説(素朴実在論)などなど。一枚岩にはほど遠い、様々な説が出てくる背景には、やはり知覚と錯覚の区別という難しい問題がでんと横たわっているからか。どの説もなんらかの側面では説明原理として有効そうに見えて、別の側面では解消できない問題が浮上してくる。かくして、読み進むほどにどこか迷路に置き去りにされたかのような感覚を覚えたりもする。現状の錯綜具合は、逆に問題のリアルな難しさを表していることうことか。ちなみに上のオートレクールのニコラの論は、「人は外的世界の知識を持ち得ない」というテーゼ(アウレオリなどが行き着く先の)に反対しているという意味で、素朴実在論を擁護する選言説に通じた議論といえそうだ。