マルコ・ラマンナ「心理学の初期の来歴について」(Marco Lamanna, On the Early History of Psychology, Revista Filosófica de Coimbra, no. 38, 2010)(PDFはこちら)という論文を読んだ。中世まで霊魂論として受け継がれてきた魂に関する学知が、「心理学」(psychology)という名称に本格的に置き換わったのは16世紀末から17世紀初めということだが、同論考はその成立と普及について考察したもの。合わせてほぼ同時期に登場する「存在論」(ontology)の来歴にも触れている。実はこの「心理学」、現在確認されている最も早い例は、16世紀初めに活躍したクロアチアの人文主義者、マルコ・マルリッチの著書(Psichologia de ratione animae humanae: 1520年頃)なのだという。ただ、それが広く使われ出すのは16世紀末になってからで、中欧の宗教改革派の学問世界においてのことなのだとか。用語の定着までには紆余曲折もあったらしく(?)、scientia animasticaなんて語も使われていた(後述のジェヌア)。いずれにしてもそこには、宗教改革派によるアリストテレスの学問の復興と、従来のスコラ学の色合いを薄めるための新語法の導入という動きが文脈としてあり、同時にその学知を自然学と形而上学、あるいは第三の中間的学知のいずれに位置づけるかという議論も絡んで複雑になっていたらしい。存在論も同様で、ontosophiaなんて語もあったらしい。
先日の近藤和敬『数学的経験の哲学』の一節に、長い伝統としてあった「数は単位である」という立場が覆され数の概念が刷新されるのが16世紀だったとする部分があった(p.127)。つまり「数は単位である」から「単位とは数である」へと考え方が大きく変換するというのだ。なるほど、ここで確かに先に挙げたクザーヌス(15世紀)の『推測について』などを見ても、数を単位として扱う立場が前面に出されている(第二章)。そこでは数が、推測をなすための原理であり、またそれに先立つものがなく、さらに単位から構成されるもの、というふうに言明されている。たとえば3という数は三つの単位(1ということか)から成るとされる。けれどもその数はそれ自体一つとして、いわば三位一体的に理解されなくてはならず、そこに縮減された三位一体性、もしくは一体三位性が見出されなくてはならない、とクザーヌスは言う。それがその数字の本質というわけなのだが、それこそがまさに思惟の第一のモデルをなしてもいるのだという。ややこしいが、いずれにしてもそこでは数が他から自立した一種の系(あるいは列)を形作るものと考えられているかのようで、数自身が分割されるようなことはない。これに対して、上の近藤本の一節で紹介されているシモン・ステヴィン(16世紀のフランドルの数学者・自然学者。小数の表記を考案したことでも知られる)の『算術論』(L’arithmetique, 1585)では、数は事物の量を表すものであり(”Nombre est cela, par lequel s’explique la quantité de chascune chose.”)、単位もまた数であるとされている。論証はこんな感じ。「同じ素材の部分は全体と同じである。単位は複数の単位の部分をなす。したがって単位は複数の単位と同じ素材から成る。ところで複数の単位の素材とは数である。したがって単位の素材は数である」。このほか、同じくステヴィンの『十分の一』(Disme英語版:1608)(オリジナルは1585)でも、冒頭に同様の定義が示されている(ちなみにこれらも含むステヴィンの著作は“Wonder, not miracle”というサイトにまとめられている)。もはや数は自立した系ではなく、量を表す指標(上記の近藤本)にすぎず、それ自体もまた分割の対象となりうるかのように扱われる。
懐疑論がらみの俯瞰的な論考を見てみた。アルフォンソ・マイエル、ルイザ・ヴァレンテ「中世の懐疑論と批判主義」(Alfonso Maierù e Luisa Valente, Scetticismo e criticismo nel medioevo, in Scetticismo. Una vicenda flosofica, ed. Mario De Caro ed Emidio Spinelli, Carocci, 2007)というもの。概説書の一部をなしているらしく、懐疑論の中世における流れが要領よくまとまっている。前半はアウグスティヌスからゲントのヘンリクスまでの懐疑論の流れ、後半は中世の批判主義と題して、アリストテレス受容に関係した中世盛期の批判主義(語弊のある言い方だが)から、とくにオッカムとオートレクールのニコラを取り上げている。以下ポイントのまとめ。セクストゥス・エンペイリコスの翻訳は13世紀末から14世紀初めになされていたものの、やはり懐疑論の流布にはキケロが重要で、しかもそれはアウグスティヌスやラクタンティウスを通じて受容されていた。懐疑論の方法論的な再評価にとりわけ貢献したのは、12世紀のアベラールとソールズベリーのジョン、さらには13世紀のゲントのヘンリクスなど。それらの著者たちを通じて、アウグスティヌスのアカデメイア派解釈は再解釈されていく。かくして示されることになるのは懐疑論的な姿勢とキリスト教的な知との両立可能性だ。これはその後、近代にいたるまで綿々と受け継がれる。アウグスティヌスにはまた(さらにスコトゥス・エリウゲナにも)、後のデカルト的コギトの先駆的な議論も見られる。ただ、そこでのコギト論は、あくまで魂における三位一体の痕跡を把握することに力点が置かれている。で、この三位一体の問題は、14世紀になって、アリストテレス論理学の枠内での一種の難点としてクローズアップされる。「この本質は父である。またこの本質は子である。したがって子は父である」という弁証法があったとき、キリスト教の教義では前提二つは真であるのに、結論部が偽とされてしまう。こうした事情を受けて、ロバート・ホルコット(14世紀のドメニコ会士)が「自然論理」に代わる「信仰の論理」を打ちだすなど、この後者を包摂する「特殊論理」(logica speciale)ということが言われ始める。スコトゥスから始まる直観認識・抽象認識の区別は、オッカムにおいて神の直接的介入の可能性(そのせいで非在の対象についての直観認識が生じるような場合)が言われるようになると、翻って人間が正しい感覚的・知的認識を得ることができないといった帰結が導かれてしまう。そうした懐疑論に対する批判者として、オートレクールのニコラなどが登場し、直観認識の明証性が改めて擁護される……。全体として同論考は、コンパクトなまとめでありながらアウグスティヌスやオートレクールのニコラについてはかなりの紙幅が割かれ、詳細部分にまである程度踏み込んでいる印象だ。とはいえ概論的・骨子的なものを読むと、やはりさらなる肉付けを、と思ってしまう。個人的には、上の特殊論理についての話や、オートレクールのニコラ以後の懐疑論の扱いなどがとりわけ気にかかる。