プロタゴラスという人物像

Laches. Protagoras. Meno. Euthydemus (Loeb Classical Library)思うところあって、昨年末からプラトンの初期対話篇『プロタゴラス』をLoeb版(Laches. Protagoras. Meno. Euthydemus (Loeb Classical Library), trans. W.R.M. Lamb, Harvard Univ. Press, 1924)で読んでいる。主人公ソクラテスが振り返る一人語りが主要部分をなすだけに、以前邦訳で眺めたときには、そのソクラテスを中心に捉えるという読み方に終始したが、今再読してみて俄然面白く感じられるのはむしろプロタゴラスのほうだったりする。そんなわけで、プロタゴラス側から全体を眺め直すという読み方がなかなか興味深い。ソフィストとして取り上げられ、プラトン的に貶められている感が強いプロタゴラスだが、改めて眺めてみると、その人物像は妙に懐が深そうだし、なにやら人間臭いところもある。それに比べるとソクラテスはむしろどこか矮小で、「痛い」感じにさえ見えたりもする。たとえば、ソクラテスはある種戦術的に「短い受け答えにしてくれ」と言うが、「論敵の言うようにはしないものだ」とプロタゴラスは悠然としていて、どこまでもマイペースだ。ソクラテスにやり込められそうになって、一時的にそれなりに黙っても、すぐに再浮上して長広舌を振るう。ソクラテスはというと、シモニデスの詩についての議論で形勢が悪くなると、居合わせている周囲を巻き込んで体裁を繕おうとする。それに比べプロタゴラスは鷹揚に構えている感じだ。人間というものについての語りで、エピメテウスとプロメテウスの神話を持ち出すのもプロタゴラスだ。

メレオロジー的に興味深い問題が二度出てくる。正義や節制や敬虔などの概念が徳の一部をなしている(顔に対する目や鼻の関係)とするプロタゴラスに対して、ソクラテスは全体と部分は類似するものでなければならないと主張し、また概念に対する反対概念は一つしかないと断じて、節制と無分別、分別と無分別がそれぞれ反対概念になるとするなら、節制と分別が同一になってしまい、矛盾すると指摘したりする。けれどもこれはやや狭小な議論とも言える。プロタゴラスは、前者についてはそれほど簡単ではないと一蹴する。後者の議論については同意するも、全体としては応対に余裕を感じさせる。この例でもわかるように、論理的に狭く問題を絞って、どこか議論のための議論のようなスタンスを示そうとするソクラテスに対して、事態はそれほど単純ではない、とある種のリアリズム(?)を念頭にそうした攻勢をかわすのがプロタゴラスという対照的な関係になっている。少なくともそうした点において、プロタゴラスは詭弁を振るう邪な人物というふうではなく、より複線化した思考をめぐらす等身大の人物という雰囲気を醸しているように見える。プロタゴラスについては個人的に、多面的に考えてみる必要があるかもしれない。

アナロジーの限界

プロトコル: 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのかこれも年越し本だが、アレクサンダー・R・ギャロウェイ『プロトコル: 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』(北野圭介訳、人文書院、2017)を見ているところ。脱中心化時代の制御を担うものとして「プロトコル」(一般には「規約」ほどの意味で、周知のとおりコンピュータ界隈でも通信規約の意味で使われる)を概念化しようという壮大な企図なのかもしれないが、理系的・工学的な情報を文系的なイマジネーションの包み紙でくるむことによって、概念本来の身の丈から無理矢理逸脱させようとしているふうに読めたりもする(著者曰く、プロトコルとはそういう情報を包んだものなのだというが……)。

基本的な話としては、ネットワークというものを、単なるメタファーの類としてではなく、物質的なもの、他を物質化するものとして捉えることで、管理・制御社会の権力関係についての理解を多様化・複雑化するというのが、著者の狙いだとされ(ユージン・サッカーによる序文)、そのためのメディウムに位置付けられる「プロトコル」は、一種のマネジメントシステムとして、フーコーの「テクノロジー」概念のごとく、またそれをより物象化したかたちで、個別化されると同時に制度全般へと普遍化・敷衍される。こう整理すると、フーコーの生権力・生政治の議論を、より技術的なレイヤから再考しようというマニフェストのようにも見えるが、その議論はどこか疾走・暴走ぎみ(?)。現実的な通信ネットワークのプロトコルはなんらかの中央的な決定機関を前提としているわけだけれども、なるほどそうした決定はときに大きな影響を与えもするだろうが、そうでもない場合もある。その影響関係を具体的に論証するのは難しいし煩雑になるだけだろう。さらにその守備範囲を社会的なもの全般へと拡げるとなると、困難はいや増すだろう。たとえば著者が挙げる、手続き型のプログラミングからオブジェクト指向型のプログラミングへの移行などは、著者が言うほどの「分散化」をもたらしているとは必ずしも言いがたいし、そこから直ちに、官僚主義や階層秩序から分散型社会システムへの移行へと話が飛躍していくのもいささか性急すぎるだろうし。人工生命形式の話にまで至るくだりなどはサイバーパンクの戯画すら思わせる。ここには、前に記したアナロジーと学問というテーマの、ある種の限界点(臨界点?)が見いだせるようにも思われる。そのアナロジーは学問的・発見的に意義あるものとなりうるのか、そこにはアナロジーの悪しき用例、アナロジカルな断絶が見いだされるのではないのか……などとつい考えてしまう。もっとも、白状してしまうと、こういう疾走感・暴走感自体は決して嫌いではなく、休日に読むエンターテインメント(失礼!)としては悪くないという思いもある……。

動物性についての問い

ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理動物がらみという関連で、これもまた年越し本となったのが、パトリック・ロレッド『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』(西山雄二、桐谷慧訳、勁草書房、2017)。原著は2013年刊。デリダ晩年の動物論が、実はその思想系全体を貫くものだったのではないかという観点から、その全体像を読み直そうという試み。デリダの実人生の歩みと絡めた評伝的な序章に続き、各章ではデリダが用いたなんらかの概念・テーマ系ごとに(ファロス=ロゴス中心主義、ファルマコン、政治の問題などなど)、動物性についての考察がその底流をなしていることを説き証そうとする。デリダのもとの議論、それぞれのテーマ系は、通念的なものの成立を支えている隠された部分(それがとりもなおさず他性としての動物性なのだけれど)をなんらかの反転的思考で明るみに出そうとするものなのだが(脱構築というのはもとよりそういうもの)、同書のアプローチはいたってシンプル、もしくは古典的・オーソドックスなもので(後期思想から、前期・中期をも貫く部分を浮かび上がらせるという手法)、確かに全体的な見通しはかなり良くなりはするのだけれど、そこにわずかばかり違和感を覚えたりもする。なるほど、動物性の議論がデリダ初期からの思想的核心部分を形成しているのではないか、というスタンスそのものは興味深いものであり、各種のテーマ系に動物論が連なっていること自体は確かに否定しがたいとしても、逆に動物論の側に各種のテーマ系が連なりうるのかは、それほど自明ではないのではないか、という気もしなくない。また、そのような連続の相での観点から全体を視野に収めようとすると、デリダ思想の入門書を標榜するものにありがちな、どこか後出しジャンケン的、いうなれば還元主義的な気配を色濃く感じさせずにはおらず、根源を問うているはずの微細な議論が、どこか雑な大枠に押し込まれて不自由なものに見えてしまう嫌いもあるのでは、と老婆心的に思ってしまうのだ。動物性あるいは動物一般を放逐することで人間は主権を、あるいは主権的権力を構成しえたものの、それゆえに動物は従属という形で暴力的に人間の主権的権力に結びつけられてしまい、いびつなかたちで関係性を結ばされている……といった根本的な視座ないし議論を扱うのであれば、翻ってこうした評論あるいは思想研究にも、それ自体を成立せしめているある種の暴力性を認め、暴き出すようなところから始めていく、というほうが、むしろデリダ的にオーソドックス(こう言うとなにやら言葉の矛盾のようでもあるけれど(笑))である気がするのだが……(無い物ねだり、か)。もちろん、デリダもまたこういう古典的アプローチの対象になったのだなという、ある種の感慨を改めて覚えはする。

制御(調節)という謎

セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか今年も年越し本がいくつか。例年、年越し本は少し毛色の違ったものを含めることが多い。今年もまたそんな感じ。というわけで、今年の一発目はショーン・B・キャロル『セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか』(高橋洋訳、紀伊國屋書店、2017)。タンザニアのセレンゲティ国立公園を舞台に、生物圏に恒常的なバランスをもたらしている「ルール」とは何かを、進化発生生物学の権威が、一般向けに平易な文体で説いた一種の啓蒙書。けれどその核心的な主題に至るのは全体の広範からで、その前奏となる生物学の諸分野での「調節機能」発見の科学史がとても興味深い。ウォルター・キャノンによるホメオスタシス概念の確立、チャールズ・エルトンの食物連鎖概念、ジャック・モノーによる制御タンパク質(リプレッサ)および二重否定論理の発見、ゴールドスタイン&ブラウンによるコレステロールの調整機能の検証、ジャネット・デイヴィソン・ラウリーによる調整失敗としてのガン細胞発生研究などを経て、ロバート・ペインによる海洋生物の生態環境変化の研究と、そこから導かれたキーストーン種(生物多様性に広く影響を及ぼす種)の発見へとたどり着く。これらはどれも、実験的にルールを破れる状況を探し出して、何が起こるかを探る、あるいは既存のシステムが崩壊している状況を見つけて、理由の解明を試みるという点で、手法が似通っている。アナロジカルだと言ってもよさそうだ。そのようなアナロジカルな手法が、最後にはセレンゲティの生物環境にも適用されていく……。

このようなまとめからもある程度推測できるように、同書はある種の思想的「起点」になりうる奥深さをもっているように思われる。まずは制御一般なるものを考える上でのヒントになりうる。また昨今かまびすしい「動物の哲学」にも接合させられうるだろう。さらにはこうしたアナロジカルな研究メソッドの、学際的な応用可能性なども興味深い論点かもしれない。とくに制御タンパク質の話以降、たびたび取り上げられている二重否定パターン(直接的に働きかけるのではなく、別個に存在する抑制因子に働きかけるというパターン)が、他の研究領域でもしばしば見られるというあたりは、思わず唸らせられる。