【書籍】ヴァレリー 芸術と身体の哲学

「詩は装置である」と言うヴァレリー


 伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫、2021)を読んでみました。詩人ポール・ヴァレリーが残した膨大なカイエをもとに、その詩論、時間論(持続論)、身体論を読み解くという野心的な一冊です。

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 個人的には第一部の詩論の部分がとても気に入りました。同時代の小説の「描写」を否定するヴァレリーは、小説や詩の作品を、生産者(作者)と消費者(読者)を媒介する装置、つまり読者が作品を通じてなんらかの(心的な?)行動をなすように促すものと考えていたというのですね。読者は自身を投影し、そこから作者の側との共感を熟成させていく、というふうに。

 ヴァレリーがラシーヌを通じて古典主義に傾倒していったというのも、興味深いところです。制約のあるところでこそ(つまり自分の言いたいことが言えないという状況のもとでこそ)、言葉の本質に迫ることができるのだという、とても禁欲的・修練(練習)的な詩作の考え方が、その根底に横たわっているというわけなのですね。

人新世と経済

抜本的変化へのメソッドは?


 岩波の『世界』5月号は、第一特集が「人新世とグローバル・コモンズ」。いったい何度目になるのかわからないほどですが、気候変動問題を再度取り上げています。でもやはりいつも問題になるのは、経済(とくに成長経済)との兼ね合い、両立といったあたりの話で、これには個人的に、いつもどこか落ち着かない違和感のようなものを感じてきました。

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 そんななか、資本主義経済を続ける限り、地球環境の問題解決、あるいはコモンズとしての広義の資源は管理などできない、と言い切る論考が出てきましたね。最たるものが、ベストセラーになっている斉藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社文庫、2020)です。総じて、成長主義経済の枠内でマイナーリペアをする程度では、環境破壊は食い止められないというのが基調になっています。下手をすると、気候変動対策が、真の問題を覆い隠してしまい、破滅への道を早めてしまうかもしれない、と。ここはもう定常経済へとラディカルにシフトしないとやばい、というわけなのですが、その理論的な支えとして出してくるのが、晩年の資本論以後のマルクスです。

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 いまさらマルクスか、という感じも個人的になきにしもあらずだったのですが、晩年のマルクスは、最終的に生産主義も、ヨーロッパ中心主義も脱却し、環境の問題へと接近していたのだ、と著者は述べています。これは知りませんでしたね。で、それをベースに、定常経済(拡大を目指さない経済)へとシフトするためには使用価値を重んじるようにならなければダメだと訴えています。そういうことを念頭に置いた運動も実際に出てきているのではないか、という見立てになっています。

 でも、そのような可能性が現実のものになるには、世界のかなりの部分がある程度一斉に、散発的にではなく、シフトしていく必要があるように思います。さもないと、マイナーリペア的な成長経済の動きに席巻され、蹴散らされてしまいそうです。では、そうした一斉的なシフトを実現するにはどうすればよいのか、どういうメソッドがありうるのでしょうか。ここが、どの議論でも触れられていない肝の部分であるように思えます。

 素人考えですが、もしかしたらヒントになるのは、前にも触れたガブリエル・タルド的な、数量化・データを徹底ないし精緻化するかたちで、経済学そのものを変革することかもしれない、なんてことを漠然とですが、思ってしまいますね。クオリティ・オブ・ライフ(QOL)の指標化などは、最もとっつきやすい部分かもしれません(もちろん簡単ではないでしょうけれど)。

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【書籍】ゲーデルの悪霊たち

思想というものの内実はとても複雑


 ピエール・カスー=ノゲス『ゲーデルの悪霊たち』(新谷昌弘訳、みすず書房、2020)を読んでみました。めっぽう面白い、天才の精神世界の内実に迫る好著です(原著は2007年)。ゲーデルといえば不完全定理が有名な数学者・論理学者ですが、プリンストン大学図書館に所蔵されているというその膨大な個人的メモからは、怖がりだったり、強迫観念的だったり、一言でまとめるなら狂気というにふさわしい様々な像が浮かび上がってくるというのです。著者のカスー=ノゲスは、それらのメモをもとに、冥界めぐりのごとくゲーデルの精神世界に降りたっていきます。それ自体、実にサスペンスフルです。

 脳というのは機械にすぎず、限定的な問題を解決することができるだけだといいつつ、精神の外からもたらされるという観念の存在を、ゲーデルはマジで信じていたりするのですね。これは一種のプラトン主義ですし、精神と身体器官が断絶しているというあたりは、ライプニッツのモナドロジーの影響を受けていたりするのだとか。精神の外にはなんらかの不可視の実体があると考え、天使や悪魔・悪霊をかたくなに信じていたといいます。ゲーデルにとっては神の存在も、客観的精神として疑う余地はないようで、そうした考え方はすこぶる神学的です。要は、神学から唯物論へといたった西欧的な思想史に対して、その唯物論にことごとく対立するスタンスを取っているということです。

 けれどもこの本は評伝ではありません。著者が探っていくのは、あくまで思想的・思想史的な問題です。数学や論理学のように高度に抽象化された学問であろうと、その根底には一定のイメージなり、想像的なものなりがあり(数学のテキストは探偵小説と類比的だ、と著者は言います)、時代精神に強く影響されざるをえないこと、そしてその影響のされ具合が問題になるわけですね。そのあたりの解釈が、同書をして、凡百のモノグラフを突き抜けさせているように思われます。

【書籍】西洋音楽の正体

古楽ファン必携♪


 伊藤友計著『西洋音楽の正体』(講談社選書メチエ、2021)、古学ファンとしてはとても面白く読みました。いろいろ忘れている話とかも思い出しました。

 パレストリーナの伝統的な作曲様式に対して、モンテヴェルディが打ち出した革新が、属七の和音(いわゆるセブンスです)を、情感を表すために活用することだった、という話から始まり、教会旋法から長調・単調へと移っていく、まったく直線的ではない変遷の歴史、そしてラモーが確立することになった和声理論や、その後の批判など、とても興味深い論点が次々に取り上げられていきます。なかなか壮観です。