『詩学』第二巻?

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』で重要なアイテムとされたアリストテレスの『詩学』第二巻。喜劇を扱ったとされるその失われた書を再現しようなんていう研究も、実際にあったことを遅ればせながら最近になって知る。うーむ、前半を中心にざっと目を通してみただけだけれど、これはちょっと驚き。リチャード・ジャンコ『アリストテレスの喜劇論』(Richard Janko, “Aristotle on Comedy – Towards a Reconstruction on Poetics II”, Duckworth, 1984-2002)というもの。パリのコワスラン・コレクションなるものにあった「Tractatus Coislinianus」という写本(現在はパリ国立図書館所蔵とか)が、どうやらその失われた第二巻に関連したなんらかのテキストの写し(第二巻そのものではなく)なのではないかということで、同じテキストの異本を突き合わせ、さらにほかの著者らによる第二巻の引用・証言などを照合して、内容・構成の両面から考察し、さらに勢い余るかのように、アリストテレス『詩学』第二巻のありうべき「復元」をも試みるというもの。限られた資料からの、これが果たして最適解なのかどうかは不明だけれど、なにやら壮大な意気込みだけは伝わってくる(笑)。ここまでが前半。後半は復元後のテキスト註解に当てられている。ちょっとこの本の評価とかも知りたくなった。

口上

口上が後先になってしまったけれど、カルデア神託をめぐるミカエル・プセロスの書をいくつか読んでいく(訳出していく)ことにする予定。底本にするのは、フランスのベル・レットルから出ている『カルデア神託』(“Oracles Chaldaïques”, trad. E. des Places, S. J., Les Belles Lettres 1971-2003)の付録部分。カルデア神託は2世紀のユリアノス(カルデアの)もしくはその息子(魔術師とあだ名された)が収集し書き起こしたものとも言われるものの、実際のところの著者は不明。新プラトン主義の人々(イアンブリコスとかプロクロスとか)によって引き合いに出されるも、文書自体は現存しておらず、様々な著者が引いている断片が残るのみとなっている。内容も「三対」「世界霊魂」「知性」「天使」「コスモス」などなどのモチーフが織りなす、とても興味深いもの。

一方のプセロスは11世紀のビザンツの著名な文人・政治家。コンスタンティノポリスで1018年に生まれ、1078年(もしくは1082年)に没している。なんといっても、擬古文で著作を残し、古典ギリシア語の復権に一役買った人物。代表作『年代記』などが有名だけれど、哲学的著作も小品など多くのテキストを残している。で、一説によるとプロクロス経由(プロクロスによる註解が11世紀ごろまで残っていたという)で知ったらしいカルデア神託について記したテキストがいくつかある。重要なものは『カルデア神託註解』、『カルデア教義の概要』、『カルデア人の古代信仰概説』。一つめが一番長く、あとの二つは小品。ここではまず、小品から訳出していくことにしようかと。余力があれば『註解』そのものも扱いたいが、ま、それは先の話。そんなわけで、ポルピュリオス『命題集』の訳出はちとお休みかな(笑)。

ちなみに

「カルデア教義の概要」- 1

Τοῦ αὐτοῦ Ψελλοῦ ἔκθεσις κεφαλαιώδης καὶ σύντομος τῶν παρὰ Χαλδαίος δογμάτων

Ἑπτα φασι σωματικοὺς κόσμους, ἐμπύριον ἕνα καὶ πρῶτον, καὶ τρεῖς μετ᾿ αὐτὸν αἰθερίους, ἔπειτα τρεῖς ὑλαίους· ὧν ὁ ἔσχατος χθονιος εἴρηται καὶ μισοφανής, ὅστις ἐστὶν ὁ ὑπὸ σελήνην τόπος, ἔχων ἐν ἑαυτῷ καὶ τὴν ὕλην ἣν καλοῦσι βυθόν. Μίαν ἀρχὴν τῶν πάντων δοξάζουσι, καὶ ἓν αὐτὴν καὶ ἀγαθὸν ἀνυμνοῦσιν. Εἶτα πατρικὸν τινα βυθὸν σέβονται, ἐκ τριῶν τριάδων συγκείμενον. Ἑκαστη δὲ τριὰς ἔχει πατέρα, δύναμιν καὶ νοῦν. /

「同じくプセロスによる、カルデアの教義に関する要点的かつ簡潔なる説明」

物質的世界は七つあると彼らは言う。まずは第一の燃えさかるものがあり、その次に三つのエーテル状のものがあり、続いて三つの質料的なものがある。そのうちの最後のものが地のもの、明かりを嫌うものと言われる。それは月下世界であり、深淵と彼らが呼ぶ物質をみずからのうちに宿している。彼らはすべての始まりは一つであると信じ、それを一者および善として讃える。次に彼らはなんらかの父なる深淵を崇める。それは三つの三対から成り、三対のそれぞれは父、力、知を擁する。/

「ポッペアの戴冠」

2008年のグラインドボーン音楽祭で上演された『ポッペアの戴冠』(モンテヴェルディ/L’incoronazione De Poppea: Carsen Haim / Age Of Enlightenment O De Niese CooteをDVDで数回に分けてと観た。「舞台映えする」と評価されるダニエル・ド・ニースが肉感的に転げ回っているのが印象的(笑)。また、従者たちが性別を入れ替えて演じているのが面白い。ミニマルな舞台美術で、でかい布一枚がいろいろな場面を構成したりもする。エイジ・オブ・エンライトンメント・オーケストラは小編成ながら味わい深く、歌もいい。カメラで人物がアップになったりするときに、演出の細やかさもよくわかる(舞台を生で見ている人はそこまでわからないんじゃないかしら?)。指揮のエマニュエル・アイムはチェンバロの弾き振りで、なかなか堂に入っている感じ。パフォーマンスは全体的に高水準のようで、舞台もとてもセクシャルかつ緊張感のある優れもの。だけれど、個人的にはやっぱり入っていけないっすねえ、この世界。

『ポッペアの戴冠』は2回ほど実演を観たこともあるのだけれど、毎回なんというか、ポッペアが脳天気に描かれるほど、その脳天気さゆえにもたらされる悲劇の部分がとても不条理に見えてくる。セネカを死に追いやった後で、ネロとの関係を阻むものがなくなったとはしゃぐ姿なんか、かなりのグロテスク。というか空恐ろしい。ポッペアが政治的な野心をもっているように描かれるのならまだしも、情念に素直にしたがうだけで、そのツケがすべて、ネロの冷徹さを通じてすべて周りの人々に押しつけられていくようにしか見えない……と。うーん、こういう人物造形とこういう筋立てで、いったい何を描こうというのか、モンテヴェルディ。そもそもの元の意図がよくわからない。まあ、これがルネサンスからバロック的な逸脱感への移行ということなのだと言われればそれまでだけれど……。

でもこのプロダクションでは、演出のロバート・カーセンはなにやら最後にちょっとした皮肉なエンディングめいたいものを用意している(ように思える。ホントか?)。そう、戴冠してハッピーらっぴーで終わり、じゃちょっとね。

技術論の地平……

読みかけというか、飛び飛びに読んでいる堀越宏一『ものと技術の弁証法』(岩波書店、2009)。物質生活や技術の視点から生活誌を描くという一冊。一言でいえば便覧のような本。総論的なスタンスでもって、中世の物質生活の全般を細かなディテールを交えながら記していくというスタイルなので、項目別に読むことができる(笑)。飛び飛びに、というのはそういう意味。なるほど技術について史学的にまとめるとすればこういう形になるのも納得できる。けれども、個人的にはその先にあるはずの各論のほうへと関心が向く。というか、関心を向かわせるような配慮の記述が目につくというか。たとえば先のジャンペル本でも出てきたシトー会の技術力の話。労働の組織化という点で、シトー会はとても興味深い対象。で、同書では、修道院経営のあり方などについて言及されていて、研究・調査の手引きよろしく、どういった史料が使えるのかも示唆されていたりする。

……と、そんなことを書いていて、この「ヨーロッパの中世」というシリーズ全体がそういう感じの編集方針なのか、と思いいたる(苦笑)。全8巻というこのシリーズ、いつの間にか全巻刊行は目前で、6巻の「声と文字」(タイトル的には面白そうだ)を残すのみとなっている。