「神の現象性」

やはり折々に現象学系の本が読みたくなる。というわけで、ジャン=イヴ・ラコストの『神の現象性 – 9つの研究』(Jean-Yves Lacoste, “La Phénoménalité de Dieu – Neuf études”, Cerf, 2008)を読み始める。個人論集なので、どこからでも読み始められる。とりあえず三章目の「現れと還元しえないもの」から。これが意外なほどに読ませる。フッサールの現象学的還元が、実は一般に考えられているほど自然な態度から離れてはいない、という話からスタート。眼前の対象物が存在するかどうかと問う前に、人はそれが何かと問うのが普通で、対象を措定して本質を把握しようとする態度は、方法論的に世界の存在という暗黙の前提をいったん括弧に入れる「還元」と通底している、というわけだ。ところが、こうした自然的な還元にも、方法論的な還元にも適さないものがある。それが他者の存在。目の前の他者は、純粋に意識の中に取り込まれる対象物としては見られないわけで、それはかならず意識の外からやって来る云々……。

そしてまた、還元に馴染まないもう一つのものが神ないし神的なもの。なるほど、本質を問うがゆえに存在が肯定されるというのが神学的な枠組だけに(アンセルムスの神の存在証明が神とは何かを問うことから始まっているのは示唆的)、存在を括弧に入れた対象として本質を問うというのは筋違いになる。そこでの存在は一般対象物のようにやすやすとは不問にできない。その点についてカール・バルトは、神の存在はそんじょそこらの存在ではないとし、先に出てきたゴニロンによるアンセルムスへの反論を批判して、対象として措定できる(還元できる)事物の存在と神の存在とを一緒くたにしているところに誤謬があると述べているのだそうだ。なるほどねえ。

しかも本質を支えるのは「信」で、それは存在を支える「信仰」よりも構造的に揺るぎない……。たしかに無神論者だって「苦しい時の神頼み」「思わず天を仰ぐ」みたいなことはあるわけで、そういう「信」がそうした非還元性に支えられているとしたら……うーむ、なにやら現象学的な「祈り」の人類学が、その先にほの見えている感じすらして、個人的には妙にグッと来た(笑)。