中世の狂気

期待していたミュリエル・ラアリー『中世の狂気 – 十一〜十三世紀』(濱中淑彦監訳、人文書院)をやっと読み始める。とりあえず序論から第二章まで。うーむ、聞きしに勝る博覧というか、繰り出される史料が多岐・広範にわたり、中世史内部での研究分野横断的な論考になっている観じだ。なかなかに小気味よい(笑)。たとえば第二章は、無神論者から始まって、狂気が道徳に取り込まれていくという話が展開するのだけれど、まず詩篇に言う「分別のない者」との絡みでアンセルムスの神の存在証明が語られたかと思うと、次にはそれへの反駁(マルムーティエのゴニロンという修道僧で、アンセルムスの証明が神の実在を証しているわけではないと反論しているらしい)が紹介され、さらにアンセルムスの「再反駁」まで言及される。詩篇の解釈から分別のない者をユダヤ人に重ねるようになった話でアルベルトゥス・マグヌスに触れたかと思うと、今度は図像学の伝統や世俗語の文学作品が例に出され、「狂気」の用語の分析が続く(クレティアン・ド・トロワからペルスヴァルの話など)。さらには典礼劇や教会の彫像から「賢い乙女」と「愚かな乙女」が対比され、最後にはトマス・アクィナスによる「アメンティア」(精神欠如)への省察が紹介される……。いやー、各章こんな感じでいろいろ入り乱れるのかしら。大いに期待している(笑)。ま、それはともかく、上のゴニロンの反駁とか、なにやら面白そうで実際に読んでみたいところなのだけれど、とりあえずガリカとかにはなかった。うーむ……。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 8

20. Τὰ δὲ ὑπὸ σελήνην ἐν τοῖς τέτρασι στοιχείοις ὑφέστηκεν · εἰσι δὲ θεῖαι τάξεις καὶ γένη περὶ ἕκαστον τῶν στοιχείων.

21. Μεθ᾿ οὓς οἱ τῶν θεῶν ὀπαδοὶ ἄγγελοι · ἐφ᾿ οἷς αἱ τῶν δαιμόνων ἀγέλαι, αἱ μὲν ὀλικώτεραι, αἱ δὲ μερικώτεραι μέχρι τῶν ὑλικοτάτων · καὶ μετὰ τούτους οἱ ἥρωες.

22. Καὶ ἔστι τοῖς μὲν θεοῖς οἰκειότερον τὸ ἀγγελικόν, ὃ δὴ καὶ πρὸς τὰς παρεδρείας σύστοιχον καὶ μέχρι τινὸς ἀνάγον τὰς ψυχάς, ἀλλ᾿ οὐχ ὑπερ τὸν κόσμον · τὸ δὲ τοῖς θνητοῖς συναπτόμενον, τὸ ἡρωικόν · τὸ δὲ μέσον ἀμφοῖν, τὸ δαιμόνιον.

20. 月下にあるものは、四元素から成る。それぞれの元素にまつわる神の序列と種類がある。

21. それらの後には、神に付きそう天使が来る。次いでダイモンの群れが来る。あるものはより普遍的、またあるものはより個別的で、それは最も物質的なものにまでいたる。その後には英雄たちが続く。

22. また、天使的なものは神々よりも親密である。補佐役としては(神々の)同列にあり、魂をある程度の高みにまで引き上げるが、世界の上にあるわけではない。死すべきものに結びついているのが英雄的なものである。両者の中間にあるのがダイモン的なものである。

コペルニクス……

先日、メレオロジー関連のとある論文のコピーをいただいた(Tさん、ありがとうございました)。アンドレ・ゴドゥ「コペルニクスのメレオロジカルな宇宙観」と題された一本(André Goddu, ‘Copernicus’s Mereological Vision of the Universe’, Early Science and Medicine 14 (2009) 316-339) 。ちょっと妙な読みにくさがあるけれど(「メレオロジー」の用語の持ち上げ方とかに、なんだか違和感を覚えたりもする……)、全体としてはなかなか面白い考察。コペルニクスは地動説の議論において、従来の天動説の何が間違いかというところで、「部分に属するものを全体に属するものと取り違えた」みたいな議論をするのだという。そこで言う部分と全体というのは運動がどこに属するか(地球か、あるいは宇宙か)ということらしいけれど、同著者はコペルニクスの考え方においてこの「部分」と「全体」の推論が大きな意味をもっているとして、まずは論理学的伝統を辿り直すところからアプローチする(コペルニクスがそういう伝統的論理学の教育を受けていたため)。とくに、論理学の教科書をなしていたペトルス・ヒスパヌス(13世紀)の論理学に着目し、キケロとボエティウスに遡るとされる「家と壁」の関係の話などを取り上げている。

ペトルスが挙げているのは、1「家があるならそのパーツもある」2「家がなければパーツもない」3「パーツがあれば家もある」4「パーツがなければ家もない」。で、この2番目と3番目が論理命題として難があるわけだけれど、アベラールなどは、全体というのは部分とその部分がもつ配置を兼ね備えたものと考え、2番目を「家がなければ、『その家をなすパーツ』もない」と解釈して真と認めるのだという。3番目も、「『この家のパーツ』があれば家もある(潜在的に)」と解釈すれば真になる(こりゃちょっと強引だが(笑))、と。さらに後のスコラ学には、部分には存続に関係するものとそうでないものとがある、みたいな議論も出てくるのだそうで(ガンのヘンリクス?)、このあたりもそれなりに錯綜していそうで、やはりいろいろ確認していけば面白そうだ。

このあたりの話は同論文の本筋ではないけれど(コペルニクスが主題だもんね)、いずれにしても、ルネサンスというか初期近代というか、後の時代を考察する論文に案外中世関連のヒントなどがある、みたいなことが、最近やたらと個人的に目につく。うーん、膨大な文献をあれもこれもと消化するのはとうてい無理だとしても、少しばかりはそういう方面も覗いてパースペクティブを拡げるのも有益かな、なんて思ったりもする。

アートの黎明へ

再びブールノワの『イメージの向こう側』からメモ。終盤の八章、九章に目を通す。物質的なイメージ(つまり絵画とか彫像とか)がそれ自体の価値をもつようになるには、一つにはその作り手がなんらかの価値を纏うようにならなければいけない。ところが中世盛期以前の神学では、人の手による「像」に美のような価値が付される議論は出てこず、すべての美は創造者としての神が一手に握っているとされたまま。とはいえ、やがて職人に創造性を認めるような議論が登場してくる。その先鞭をつけたのはドゥンス・スコトゥスらしい。神の中にあるイデアがモデルもしくは本質として先行するという通念を、スコトゥスは批判しひっくり返す(イデアはモデルではなくあくまで認識対象として神のうちにあるという立場)。オリヴィが絵画技法の理論的支えを示していたという話が前に出てきたれけど、その意味では、このオリヴィ=スコトゥスのラインは鉄壁かも(笑)。で、これをオッカムが拡張し(イデアは事物そのもののことで、先行などしないという立場)、創造におけるモデルの考え方が根本的に葬られる。こうなると、神はみずからの内に存在しないものを創り出すのだということになり、やがて(これとは多少違う路線からだけれど)、クザーヌスが人為的な営為もまた神の創造に比されるということを言い出す。人は作り手の職人として神の似像だというわけだ。こうして職人的な価値が高まる契機が作られる(八章)。

これとは別筋に、やはりスコトゥスが、エギディウス・ロマヌス(トマス派)の「痕跡(心的印象)が普遍を表す」という論(?)を批判する。と同時代的にガンのヘンリクスが知的スペキエスを批判する。サン=プルサンのドゥランドゥスも、「視覚が捉えるのはスペキエスではなく物体そのものだ」として、モノと認識の中間物(像)を否定する。これも完全否定にいたるのはオッカム。こうして心的な中間物が取り除かれてしまうと、たとえば物質的な像を通して彼方の神を崇めるという図式も崩れだし、像は像でしかなく、描かれた対象とは別ものだということになる(ドゥランドゥス)。崇める対象はあくまで像が喚起する「対象の記憶」なのだから、像はそれを喚起しさえすればよい。神は不可視であることが、神の像から思い出されればよい。かくして14世紀には父なる神の姿まで描いた絵画も登場し、神学者たちはこれを問題視するようになる(ホルコットやウィクリフ)……(九章)。絵画の世俗化はもうすぐ目の前か。

最近の宗教社会学?

忙しいときほど、逃避衝動も大きくなり、普段は読まないような本も眺め出す……悪い癖ですねえ。というわけで、以前購入して積ん読だったノルベルト・ボルツの『宗教の知』(Norbert Bolz, “Das Wisen der Religion”, Wilhelm Fink, 2008を冒頭から読みかじり出す。ボルツはメディア論なども手がけるシステム社会学方面の人だけれど、わりと平坦なドイツ語という印象があって、同書などもなにやら読みやすい感じ。教会などの大きな宗教組織が力を失い、それでいて信仰が細分化しかえって社会化している現状を分析していく、という趣旨なのだろう、たぶん。でもなんだか冒頭の現状分析はわりとごく普通というか、あまり新鮮味はない気が……(苦笑)。このあと、願わくばシステム論的に大きく展開することを期待しつつ(?)、ま、しばらくは切れ切れに読んでいくとしようか、と。とりあえず面白い展開になったらメモることにしよう。