修道院的?

ふと、西欧の哲学が論争中心だとするなら、日本のほうはさながら修道院神学のようかもしれないなあ、なんてことを思う。ちょうど先に挙げたブールノアの『イメージを超えて』の第三章が、瞑想と像との関連性について取り上げていて、アウグスティヌスから聖ベネディクトゥス、サン=ヴィクトルのフーゴー、クレルヴォーの聖ベルナールなどをめぐっていく趣向だったため。読むことイコール瞑想とされていたのは聖ベネディクトゥスの修道院規則から。その場合の読むこととは当然聖書の音読だったわけだけれど、音読した句を反芻し吸収するのが瞑想の役割だったとか。これってまさに「理解」ということ。で、聖書を超えて瞑想が広く世界や倫理へと拡大されていくのは12世紀のことだという。音読から黙読への変化も同じ頃。なるほど、かくして12世紀後半から13世紀になると哲学の伝統が大学経由で大々的に持ち込まれ、討論が学知探求の基本となり(アベラールとかが活躍)、瞑想が主体の修道院神学は衰退していくという流れになるのか。日本のような、西欧側からすれば「辺境の地」では、そういう瞑想的営為こそが育まれ残り続けたということからしら。そうだとすると、なにやらこれはとても示唆的な感じもする(って、ちょっと大雑把な括り方かもしれないけれど)。

……大雑把な括りということで、ちょっとついでだけれど、中央公論の2月号(特集は「大学の敗北」)で、養老孟司氏が西欧と日本で大学の起源が違うという話をしていて、日本の大学はもともと法学や医学などの実学指向だけれど一方で西洋において初めて作られたのは神学部だ、みたいに放言している。えー?でもそれってパリ大学とかしか念頭に置いてない話じゃないの?ほかの地域の大学(イタリアとか)では、まず医学部とかまず法学部とかから出来たんだったような気がするんですけどねえ(笑)。後でちょっとリファレンスを確認しようと思うけれど、養老氏のこの括り方はちょっと難ありでは……。

再びピロポノスの三次元話

ピロポノスの場所論(『自然学注解』の一部)と、その反・世界永続論に対するシンプリキオスの反論(こちらも『自然学』の一部)を英訳でまとめた一冊『場所、真空、永続性』(“Place, void and eternity”, trans. D. Furley, C. Wildberg, Cornel University Press, 1991)を古書店で結構安く手に入れた。どちらもガリカから落としてきた希語テキストも手元にあるのだけれど、注とかいろいろ参考になりそうなので英訳も持っておこうかなと思った次第。とりあえず、シンプリキオスの反論から読み始める。ピロポノスの議論を要約(あるいは引用)した上でみずからの反論を綴っていくというスタイルで、結果的にピロポノスの議論の大枠がかなり明確に浮かび上がる。とくに「反アリストテレス論」を盛んに引いているのでとても参考になる。

ピロポノスの基本的な議論は「天空も含めて世界は可滅的である」というもので、その根拠として、月下世界も天空もともに質料に依存し、複合体(形相との結合)である限りにおいて解体が可能であるとともに、有限性を宿し、分割可能でもある……といったことが挙げられ、したがって可滅なのだとされる。ピロポノスは天空と月下世界との構成要素(それぞれ第五元素と四元素)を分けずに議論を組み立てているようで、その点がなかなか斬新(笑)。天空の物体(天体)も複合体だという議論の中で、天体とて形相を取り払ってしまえば、後はその「三次元(の基層)」のみが残るのだから、その点では地上世界の物体となんら変わらない、とピロポノスは述べているのだという。この部分には訳者(ウィルドバーグ)の注があって、新プラトン主義的な第一質料の考え方への批判は例の「反プロクロス論」の中で展開していることが記されている。なるほどね。参考文献としてソラブジやウィルドバーグの書が挙げられているので、そのうち見ないと。

シンプリキオスは論点別に逐一反論を加えるわけだけれど、基本的には論理的不整合を指摘しまくるというスタンス。この間の八木雄二氏の本でも、「西欧の哲学の基本は論争のやりとりであって、日本のように人生観その他の理解が先に来るのではまったくない」みたいなことが繰り返し言われていたけれど、こういうやりとりを見ていると、改めてそのことが如実に感じられるかも。論争はリスペクトの裏返しだとも言われたりするけれど、もしそうならそれはうらやましい限り。なにしろこの島国では……(以下自粛:苦笑)。