フッサール

相変わらずまとまった時間が取れないので、切れ切れに読んでいるのが『現代思想12月臨時増刊 – フッサール』(青土社、2009)。現代思想の増刊も久々だ。それにしてもフッサールの読み直し、なかなか興味深い。特にフランス系の著者たちを中心にいくつかの論考が翻訳されていて、ちょっとしたムーヴメントっぽさを感じさせてくれる(笑)。ただ、現代思想誌のこうしたフォーマットがやや旧弊という感じもしなくはないのだけれど……(最近とみにそういうことを考えてしまう……)。とりあえず読んだうちで個人的に面白かったものを挙げるなら、斎藤暢人氏の「全体と部分の現象学」という論考。なんとメレオロジーとフッサールを切り結ぶ、というなんとも刺激的な内容。メレオロジーというか、トロープ理論なのだけれど(同著者によると、トロープは「普遍者とされる色、音などの属性を、敢えて個別者としてみたもののことである」(p.280)と説明されている)、フッサールの存在論に出てくるという複数体概念(Mehrheitだそうだ)が、このトロープが形作る束としての個体性概念と通底するのだという話だ。さらに最後のところでは、不可算名詞に代表される「量的なもの」を経ることによって、いわゆる個体と複数体とがそれぞれ構成される機序の共通性と違いとが浮かび上がってくるという寸法だ。そういえば、トロープ理論はアリストテレスの存在論の枠組みと対照をなす、なんてことが同論考でも言われているけれど、中世後期あたりにはすでにしてトロープの先駆けとなるような考え方も多少出てくるなんて話もあって(アベラールにまで遡れる、みたいは論もあって、アラン・ド・リベラが多少とも批判的に取り上げていたっけね)、個人的にはいろいろ気になってはいる。そのうちまとめて検証してみたいところなのだけれど。

「大乗起信論」論

井筒俊彦のもろ仏教方面の著書は読んでいなかったので、文庫化されている『意識の形而上学』(中公文庫、2001)を読んでみた。うーむ、仏教方面もまたいろいろとややこしい(苦笑)。それでも、存在論的アプローチの第一部の中心をなす「真如」概念や、認識論的アプローチの第二部の「心真如・心生滅」「空・不空」「アラヤ識」あたりまでは、まあなんとなくイメージできるというか(図もあるし)。しかし第三部の個的実存意識の話になると、九段もある「不覚」形成プロセスとか、なかなかに錯綜してくる。基本的に、同じ言葉が複数の意味を担っていたり、異なる意味の語が同じ事象の表裏一体をなしていたりするという話なので、原テキストを読み解いていくのは一筋縄ではいかないのだろうなあ、と。その意味では井筒氏のこの見事な捌き方は、いつもながら実にほれぼれするような切れ味、という感じ。

それにしても、最初のほうの真如を扱った箇所で、それが仮名であるという話ついでに、同種の仮名としてプロティノスの「一者」が定義が引かれているのが興味深い。さらには老荘思想の「道」も、ウパニシャッドの「梵」も、アル・アラビーの存在一性論も同様に、根源的な無分節を基礎としているとされ、広義のアジア圏に広く共有されている思想パターンらしいことが示されている。うーん、なるほど、アジア的なものとしてのプロティノス……いいっすね、『エンネアデス』もしばらくご無沙汰しているけれど、ちょっとまた読み直したくなってくるっすね……。

電子書籍……

メルマガのほうで「Ad Gaurum」という、元は偽ガレノス文書とされ、今やポルピュリオスの著作ではと言われている書簡を取り上げている。胚への魂の付与がいつどうなされるかを論じた、その筋では重要な文献という話。ギリシア語原文は入手できていないのだけれど(19世紀末ごろの版があるらしい)、とりあえず廉価で手に入る仏訳を参照している。Arbore d’OrというスイスのeBook専門のオンラインストアにある『ニンフの洞窟』との合本。7ユーロちょい。訳も悪くない気がする。もちろん、もっと学術的に厳密な訳がいいというなら、たとえば仏訳ではフェステュジエールの『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』の第三巻(1953)の付録とかがある。こちらのCNRSのページによれば、リュック・ブリソン監修で訳出・注釈作業が進んでいるらしいし、独訳も2つあることがわかる。そのページに記されている2005年7月の会議というのが、例の論集『胚 – 形成と生命付与(生命活動としていたけれど、これも修正)』のもとになったもの。

でもま、個人的には学術訳と一般向け訳とあっていいと常々思っているので(両方が併存するのが理想)、とりあえず廉価な電子本は大歓迎だ。上のeBookはPDF形式なのだけれど、これをAdobe Readerではなく、Adobe Digital Editionsとかで開くと、結構快適に画面で眺めることができるし。で、こういうのを見るとAmazonのkindleとかも早くMac版配布しないかな、なんて思ってしまう……。うーん、こうやって電子本時代に馴染んでいくのかしらね。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 7

16. Τῶν δὲ ζωογόνων ἀρχῶν ἡ μὲν ἀκρότης Ἑκάτη καλεῖται, ἡ δὲ μεσότης ψυχὴ ἀρχική, ἡ δὲ ἀποπεράτωσις ἀρετὴ ἀρχική.

17. Μετὰ δὲ τὴν ἀρχικήν τάξιν ἡ τῶν ἀρχαγγέλων ἐστίν· ἀπὸ δὲ πασῶν τῶν ἀρχῶν ἡγεμόνες ἄγγελοι προέρχονται.

18. Μετὰ δὲ τὴν ἀρχαγγελικὴν πρόοδον ταῖς ἀρχαῖς συνηρτημένην ἡ τῶν ἄζωνων ὑφίσταται· ἄζωνοι δὲ καλοῦνται ὡς εὐλύτως ἐνεξουσιάζοντες ταῖς ζωναῖς καὶ ὑπεριδρυμμένοι τῶν ἐμφανῶν θεῶν.

19. Μετὰ δὲ τὰς ζωνὰς ὁ ἀπλανὴς κύκλος, περιέχων τὰς ἑπτὰ σφαίρας.

16. 生命をもたらす原理のうち、最も高みにあるものがヘカテーと呼ばれ、中程にあるものが支配的魂、端にあるものが支配的徳と呼ばれる。

17. 支配的なものの序列の次に来るのは、大天使の序列である。指導的な天使はすべての原理に先立つ。

18. 原理に結びついた大天使の行列の後には、帯をなさないものの行列が来る。帯をなさないものと呼ばれるわけは、帯に対して難なく自由に振る舞え、目に見える神の上に置かれるからである。

19. 帯の次に来るのは固定した円であり、それは七つの天球を取り巻く。

アッティコス

これまたちびちびと読んでいた希仏対訳本『アッティコス – 断片集 』(“Atticus – fragments”, trad. Édouard des Places, Les Belles Lettres, 2002″。主要部分は一通り目を通したが、これもまた面白い。中期プラトン主義のヌメニオスのちょっと後くらいの時代の人(二世紀)だというけれど、なにやら生涯とか詳しいことはわからないという。プラトンとアリストテレスを折衷しようという動きに反対しているようで、基本的に両者は相容れないという立場に立つようだ。たとえば「生まれたものがすべて滅するとは限らないし、滅しないものがすべて生まれたものではないとも限らない」みたいなことを言ってアリストテレス的な世界の永遠の議論に釘を刺していたりする。また、そもそもアリストテレスに対して否定的で、「プラトンは第一の物体こと元素は四つとしているが、アリストテレスは第五の元素を持ち込んで数を増やしている。(中略)唯一アリストテレスだけが他の元素にある質をいっさい持っていない、いわば物体ではない物体を持ち出してくる」と、第五元素(というか第一質料かな)をまったく認めていない。ヌメニオス同様、正統派のプラトン主義はわれにありと言わんばかりで、それほどに折衷派との対立は根が深かったんかなあ、と思わせる。