刷新の時代

平井浩編『ミクロコスモス – 初期近代精神史研究第1集』(月曜社、2010)を眺めているところ。ちょうど昨日、出版記念のトークショーがあったらしいけれど、残念ながら別の用字で行けなかった。編者は欧米で活躍している研究者で、その筋の有名サイトBibliotheca hermeticaの主宰。そこでの日記を読むに、てっきり国内での研究・出版なんかはまったく見向きもしないのかしらと思っていたので、この刊行は意外だった(ちょっと誤解していたかも。反省)。若手の研究の「販路」が乏しいと言われて久しいだけに、こうした論集を待望する向きは少なからずいるはず。編者の巻頭言にある「オーディエンスそのものを開拓し育てていく」というのも好印象。そうよね。裾野が広くないと屹立するものが出てこなくなってしまう。サッカーの日本代表を強くしようと思ったらやっぱりJリーグを育てないと、みたいな(笑)。

で、この論集、中身も粒ぞろいの論考が目白押しで、かなりの読み応え。ルネサンス以降の思想史も複雑なだけに、個人的にはなかなかスコープが定まりきらないのだけれど(苦笑)、大筋の(というか通念・通俗的な)理解すら、新しい研究によっていろいろな修正がほどこされないといけないことを痛切に感じる。たとえば菊池原洋平「記号の詩学 – パラケルススにおける「徴」の理論」では、冒頭にいわば枕としてフーコーの主張の話が出ていて、その歴史学的には大雑把な主張がその後、より細やかに、しなやかに深く探求されるようになった、みたいにまとめられている。今求められているのはやっぱりそういう各論的な細やかさだろうなあ、と。それによって通念が刷新されていく、あるいはそういう刷新が本格的にクローズアップされていくフェーズなんだろう、きっと。

論集の中でとりわけ個人的に興味深いのは、東慎一郎「伝統的コスモスの持続と多様性 – イエズス会における自然哲学と数学観」という論考。「16世紀のアリストテレス主義は、中世大学におけるアリストテレス主義とは別個に考える必要がある」(p.204)とのことだが、具体的にどのように、どれほど違うのか興味あるところ。同論文もその一端を示してくれている感じではあるけれど、「イエズス会の哲学が実際にどのようなものであったかに関しては、16世紀のアリストテレス主義全般の場合と同様、まだ研究が緒についたばかりである」(同)とのこと。イエズス会といえば、個人的にはスアレスとかに関心があるのだが、まだあまり手をつけていないなあ……(苦笑)。そのあたりもふくめ、そうした研究動向はぜひ注目していきたいところだ。