ブラッドショウ本(3)東の伝統

再びブラッドショウ『アリストテレスの東西』から。西側は基本的にポルピュリオス系の思想が受け継がれ、エネルゲイアがエッセ(存在)と重なっていくのに対して、東側(ギリシア語圏)では、エネルゲイアはむしろ純然と「行為」の側面が強調されていくらしい。それはまず初期教父たちにおいて、神が及ぼす作用として取り上げられる。それが転化する形で、「エネルゲイア」は呪術などにまで意味の範囲を拡大させる。その背景には、ヘルメス思想(「世界とは神の働きかけである」など)の伝統があり、さらにはイアンブリコスやプロクロスの思想がある。かくして「神的な作用」の神学は東方圏に綿々と受け継がれていくことになる。

そうした作用は、一方では「発現」として捉えられる。ニュッサのゴレゴリオスは神を表す名辞の類はすべてエネルゲイアだとし、神の本質そのものはウーシアであると定義する。こうした考え方はバシレイオスなどにも見られ、また用語こそ異なるもののナジアンゾスのグレゴリウスも同じような立場を示す。加えてこれらの教父たちは、神の営為とは形相の観想、もしくは高度な非・知性的自己把捉であり、その営為は人間の魂にも受け継がれていると考えている。発現と観想は、形を変えたプロクロス的分与論の亜種のような形で重なり合う。ウーシアは違えど、人間と神はエネルゲイア(営為=発現)において重なり合う。

こうした考え方は、ディオニュシオス・アレオパギテスにも受け継がれ、さらに証聖者マクシモスにも受け継がれる。ディオニュシオスの言う悟りの境地「暗闇への侵入」は、マクシモスにおいては「絶えざる祈り」という行為で表現される。それはエネルゲイアにおける神との合一の行為論を指す。一方でエネルゲイアにはもう一つ、被造物を照らす照明としての意味論もあり、「創造されたのではない光」という形で示される。これはダマスクスのヨアンネスでも用いられているものの、12世紀の新神学者シメオンにおいて集成される。創造されたのではない光は、ウーシアとエネルゲイア(発現としての)をつなぐものとされ、かくして三位一体論の伝統と結びつく……。

個人的にはこの行為論としての「絶えざる祈り」が興味深いところ。このあたりは原典に当たってもっと詳しく調べてみたいと思う。さらに次の章では、ヘシュカズムの「祈り方」に対するバルラアムの批判(祈りへの身体の関与を批判している)も紹介されている。これは、さらにそれを再批判するグレゴリオス・パラマスがウーシアとエネルゲイアの区別を改めて引き合いに出していることへの、あくまで導入部分でしかないのだけれど、これまた祈りの現象学という観点からすると、なかなか刺激的な議論を含んでいそうに見える。これもまた改めて考えてみることにしよう、と。

↓Wikipediaから、証聖者マクシモスのイコン