テオフラストスの操作志向?

テオフラストス『植物誌』の6巻から9巻(Loeb版の下巻)をざっと読み、次いで付録のようについている小論から「匂いについて」を読んでいるところ。『植物誌』の後半、とくに末尾の9巻は、治療に関係する植物の効用や活用法を説いた部分で、その操作志向が強く鮮明に出ている気がする。「匂いについて」も同じような観点で書かれていて、匂いを出す仕組み(かなり簡便に記されているが)を前提に、具体的な現象や合成方法・混合方法などが長々と解説されている。アリストテレスの機能主義的なスタンスを、そういう面に力点を置きながら受け継いでいるということかしら。こうなると気になるのはほかの著書はどうなのかという点。やはり操作志向が見られるのかどうか。ちなみに先のブラッドショウ本では、テオフラストスはどうやら、アリストテレスのエネルゲイア概念をキネーシスに近い意味に重点を置く形で受け継いでいる、ということらしい。形而上学ではなく、自然学において使われている意味が強調されるという話で、しかもテオフラストスは(アリストテレスに反して)、運動とは十の範疇のいずれにも見出されるもの(!)と考えていたといい、自然のあらゆる事物は運動において存在すると論じているという。天球の回転運動しかりで、それは自然に、その本性に備わった属性だとされるのだとか。結果的に(というべきか)、アリストテレスに見られるような第一動者への思惟の帰属といった話は出てこず、テオフラストスは知性のような非物質的なものが物体的なものを動かすといった議論を(意図的に?)スルーしてしまっているというのだ。

なるほど、その点もまた「操作性」重視という観点の反映かもしれない、などとつい考えてしまう。一種のプラグマティズム?理路の簡素化?クラスよりもインスタンスを重視?うーん、物体を動かすものを外的な知性よりもむしろ内在的性質に位置づけたほうが、確かに物体同士の組み合わせや操作はより考察しやすくなるが……。そのあたりも含めて、他の著作にも当たってみなくては……。