アダム・ヴォデハム

前回のメルマガでスーザン・ブラウアー=トランドの「いかにチャットンはオッカムの心を変えたか」という論考(Susan Brower-Toland, How Chatton Changed Ockham’s Mind: William Ockham and Walter Chatton on Objects and Acts of Judgment. In G. Klima (ed.), Intentionality, Cognition and Mental Representation in Medieval Philosophy. Fordham University Press, forthcoming)を取り上げたのだけれど、そこにちょっとだけ、オッカムとチャットンの対立の構図が後世の弟子筋へと受け継がれていくことが示されている。というか、彼らは両者の対立点をスターティングポイントにして議論を重ねていくのだという。言及されているのは、アダム・ヴォデハム、ウィリアム・クラトホーン、ロバート・ホルコット。いずれもオッカム後のオックスフォード哲学者第一世代とされる人々だ。どちらかの立場に立つか、あるいは両者の間の中道を行くかはそれぞれらしいが、同論考の末尾では、判断とは認識の一種なのか(オッカムの立場)それとも判断自体は意志や表象を伴わないものなのか(チャットンの立場)について、アダム・ヴォデハムによる両者の議論のまとめが紹介されている。14世紀後半の判断論の議論は、判断の対象もさることながら、判断という行為の性質にまで及ぶといい、ヴォデハムのまとめは、それがオッカムとチャットンのやり取りに端を発していることを示していると結んでいる。

で、もう一つ。やはりオッカムとチャットンの、今度は天使と人間との思考の処理をめぐる対立についてのマーティン・レンツの論考(Martin Lenz, Why Can’t Angels Think Properly ? Ockham against Chatton and Aquinas in Angels in Medieval Philosophical Inquiry: Their Function and Significance, Isabel Iribarren and Martin Lenz (eds.), Aldershot: Ashgate 2008)にも、最後のほうでヴォデハムへの言及がある(論考自体は次のメルマガでちょこっと取り上げる予定)。心的言語による思考は天使にも人間にも共通だ、というのがオッカムの基本的な考え方なのだけれど、チャットンは天使の場合にはそれがフラッシュのように一度にすべての知識を与えられると考える。福者に与えられる啓示の場合も、同様に一度に真として与えられるとされるのだけれど、ヴォデハムはそれについて、オッカム寄りの立場からチャットンの論点を突いているのだという(詳細は略)。うーむ、ヴォデハムもちょっと面白そうだなあ。ちなみにAdam Wodham Critical Edition Projectという専門サイトもある。

「アダム・ヴォデハム」への1件のフィードバック

  1. Adam Wodeham は、オッカムの個人的な秘書だったと思われる重要な人物ですが、といっても十四世紀の哲学史の専門家くらいにしか知られていないと思いますが・・・。Courtenay, Wood, Sylla といったスター学者たちが一時期書いていましたが、ここ10年くらいは、『命題集』註解史の伝統の中で再度注目されている以外は、あまり論文が書かれていないですね。

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