長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは本源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせいで徹底化していないとこれを批判すらしてみせる。その上で、日本語の「ある(あり)」を助動詞に分類する時枝誠記(!)の「反・存在詞」議論を取り込んで、肯定的断定の「だ」に置き換えることを提案している。ちょっと驚くのだが、つまりトマスにとっての神は日本語的に「<だ>そのもの」とするのがよいのではないか、というわけだ。うーむ、これはトマスの存在論もさることながら、西田哲学の解釈の問題や、日本語をめぐる言語哲学の可能性などまで盛り込んだ、いってみれば時限爆弾のような挑発的議論かもしれない(もちろん良い意味で。けれど一歩間違うととんでもないことにもなりかねないような……)。この考察をさらに展開する作業が著者の死によって中断されているらしく、その意味でも、まさにこれは後続世代に突きつけられた挑戦状という感じ(?)。