リュートtube 8 – バッハ

バッハのリュート組曲2番からジグ。けれども今回はこの映像に注目ですかね。微速度撮影による蔵王と酒田市のどこか幻想的な風景が、ジュリアン・ブリームの演奏と融合して、ちょっとこれは至福のひととき。うーん、お見事。

分類思考

相変わらずの養生中。そんなわけで、いろいろな作業は中断中。本読みも滞りがち。そんな中、三中信宏『分類思考の世界』(講談社現代新書)を読む。連載がベースということだが、各章の頭にそれぞれ枕が配されているのはそのため(ちょっと多すぎる嫌いもないわけでは……)のよう。前の『系統樹思考の世界』よりも、どこか散漫な感じがするのもそのせいかしら(追補:そのあたりについて、あとがきで触れられていた)。基本的には、「種」概念を中心とした生物分類学の変遷をまとめたもので、とりわけマイケル・ギゼリンという人による「分類学の形而上学」の組み替えが軸線として据えられている。著者によると、それは種タクソンをクラスではなく、時空の制約を受ける個物と考える立場なのだそうで、その時空性をもった個物の形而上学をプロセス形而上学と称しているのだそうだ。うーむ、これは面白そう。なるほど、生物学的な分類は、まさに分類という営為の王道。そこから、その分類思考の枠組みそのものへの問いかけが出てくるというのも、ある意味当然の帰結なのかも、なんて。

あと、この本のカバーを外すと、そこにちょっとしたサプライズが。良いっすね、こういう遊び心満載の本作り。

福本ワールド

『カイジ』の実写版映画公開に合わせてということなのだろうけれど、雑誌『ユリイカ』10月号は特集が福本伸行。福本ワールドは絵柄も話もどこか異形。その異形ぶりは同誌に再録された初期短編(絵柄はずいぶん違うが)にもほの見える。主人公の高校生はなんと朝から酒飲んで路上で寝ているという、ラブコメにはまるで似つかわしくないキャラクター。なにかこの、すさみ方がすでにして異形だ。で、『ユリイカ』誌だけれど、特集の対象がそういう異形世界なのだから、批評・論考も異形のものが期待される。個人的に目を惹いたのは、タキトゥスによる賭博についての一節から始まる、前田塁氏の論考。ギャンブル(麻雀など)を扱う小説やマンガが、結局は和了形から遡行して展開が逆算される以上、作品はいわば賭博の偶然性をどう消去していくかというプロセスに始終せざるをえないことを看破している。賭博の本質は「描かれない外部」としてあるということか。論考の末尾を閉じるのは、今度は『ゲルマーニア』の一節という、なかなか手の込んだどこか「異形の」論考。

お詫び:メルマガ(10月10日発行予定分)

体調悪化により、10月10日に予定していたメルマガ(No.158)の発行をやむを得ず見送りました。この号は2週遅れの10月24日に発行したいと思います。ご了承のほど、お願い申し上げます。

イスラム圏でのギリシア人

年二回刊行の『理想』最新号(No.683)は特集が「中世哲学」。聞き覚えのある執筆陣が並ぶ。内容も、ギリシア教父関連、アウグスティスヌ、トマス、エックハルト、クザーヌスなどなど、ほかの某学会誌に並ぶようなテーマというかタイトルが多いのだが、そんな中、個人的には三村太郎氏の論文(「中世イスラーム世界における『ギリシア哲学者』の存在意義とは」)がとりわけ目を惹く。アル・ファラービーがアリストテレス主義者だという話はよく聞くけれども、ではいかにしてファラービーはアリストテレス主義者になりえたのか、という問題設定。ここから、大きな歴史的動きが浮かび上がる。アラビア語でのキリスト教護教文献の登場とともにイスラム教との間に宗教の正当性をめぐる議論の場ができ(アッバス朝が率先して設けた)、そこにギリシア語話者のキリスト教系の医者たちが参加する。彼らは医学知識でもってパトロンに仕えていたものの、様々な助言をもする存在で、彼らがアリストテレス哲学(とくにオルガノン)を浸透させる役割を果たした、というわけだ。なるほどこれも、最近の研究動向というか、アラブ世界のアリストテレスの再発見にギリシア系の人々が一役買っていたという話に連なる研究成果。うーむ、やはり中世ギリシア圏は面白そう。