エウパリノス・プラス?

少し前に高橋さんから、写本を読むための演習用テキストというのを頂戴したのだけれど(改めて感謝)、その際に写本で多用される省略文字の辞書というのをご紹介いただいた。これ、Web版もあるということなのだけれど、個人的には冊子の方が断然良い気がする。『ラテン語・イタリア語の省略記号辞典』(“Dizionario di Abbreviature latine ed italiane”, Andriano Cappelli, Ulrico Hoepli Editore, 1990-2006)というもの。この辞書、パラパラめくるだけでも結構楽しい(笑)。いろんな省略形があるのだなあ、と改めて感心する。おそらくは当時の速記上の工夫の数々なので、そのあたりに思いを馳せながらただ眺めているだけでも、妙に感動的な気さえしてくる。初期印刷本はともかく、それ以前の写本となるとなかなか実際に目にする機会がないし、あってもなかなか読めないのだけれど(暗号解読に近くなってしまうので)、こういう辞書を見ると、むしろ解読よりも写本作りをやってみたくなってくる(笑)。こうした省略形は、現実の筆記作業において練り上げられた工夫もしくはお約束だろうから、習得する場合も実際に書いてみる・作ってみるのがよいのではないか、とも思う次第。個人的に、古典ギリシア語、ラテン語の偽書を作るというエウパリノス・プロジェクトを進めようとしているのだけれど(今はまだ下準備段階)、テキストレベルで終わらずに、実際に羊皮紙を製本して筆記するところまで行けないものだろうかと改めて夢想してみたりする(笑)。どうせならペンやインクも当時のものを復元して……とかね。うんうん、それでこそ本物の偽書(形容矛盾だけれど)だよなあ。テキストをさらに一段先に進めるということで、題して「プロジェクト・エウパリノス・プラス」?

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 – 4

Ὕμνος δὲ τοῦ Πατρὸς οὐ λόγοι σύνθετοι, οὐκ ἔργων κατασκευή · μόνος γὰρ ἄφθαρτος ὤν, φθαρτὸν ὕμνον οὐ δέχεται · μὴ οὖν κενῇ ῥημάτων καταιγίδι πείσειν ἐλπίζωμεν τὸν λόγων ἀληθῶν δεσπότην μηδὲ ἔργων φαντασίᾳ μετὰ τέχνης κεκαλλωπισμένων · ἀκαλλώπιστον εὐμορφίαν θεὸς φιλεῖ. Ὕμνον οὖν τῷ θεῷ τοῦτον ἀναθῶμεν · καταλίπωμεν τὴν ῥέουσαν οὐσίαν · ἔλθωμεν ἐπὶ τὸν ἀληθῆ σκοπόν, τὴν εἰς αὐτὸν ἐξομοίωσιν · γνωρίσωμεν τὸν δεσπότην, ἀγαπήσωμεν τὸν Πατέρα · καλοῦντι πεισθῶμεν · τῷ θερμῷ προσδράμωμεν, τὸ ψυχρὸν ἐκφυγόντες · πῦρ γενώμεθα, διὰ πυρὸς ὁδεύσωμεν. Ἔχομεν εὔλυτον ὁδὸν εἰς ἀνέλευσιν · Πατὴρ ὀδηγεῖ, πυρὸς ὁδοὺς ἀναπτύξας μὴ ταπεινὸν ἐκ λήθης ῥεύσωμεν χεῦμα.

父の賛歌は作られた言葉ではなく、儀式の準備でもない。唯一の不滅の存在であるがゆえに、滅するものの賛歌は受け付けないからである。ゆえに、空虚な言葉の嵐でもって、あるいは人為的に飾り立てた儀式の幻想でもって、真の言葉の師を説得できると期待してはならない。飾り立てたのではない美しさを神は好むのである。だからこそ、そのような賛歌を神に捧げよう。流れていく存在をうち捨てよう。真の目的、つまりその者との同化へと向かおう。師を知り、父を愛そう。呼びかける者に従おう。熱きものへと駆け寄り、冷たきものを逃れよう。火と化して、火の中を通っていこう。高みへといたる開かれた道を手にしよう。忘却のせいで私たちが流れに身をまかせてしまわなよう、父は火の道を開き、導くのである。

ラ・フォル・ジュルネ

昨日は性懲りもなく、今年もまたラ・フォル・ジュルネ音楽祭を覗く。今年はショパン特集なので、個人的にはそれほど高揚感とかもなく、とりあえず「覗いてみた」という感じ。まずはジャン=クロード・ペヌティエのピアノ演奏。ピアノの生音は久々。フォーレとショパンを交互に弾くという面白いプログラムなのだけれど、フォーレはどこか引き立て役という趣きになってしまう。ま、そういう演出なのだろうけれど(笑)。続いてお馴染みのリチェルカール・コンソート(指揮者はリュート畑出身のフィリップ・ピエルロ)によるヘンデルのアリア集。ソプラノはマリア・ケオハネ。結構当たりの良い声質。うーん、でも、ヘンデルのアリアって個別に聴く分には耳に残るメロディとかでいいなと思うのだけれど、一堂に会すると意外に飽きてくる感じも(苦笑)。

で、メインイベントはやはりミシェル・コルボ。これまたお馴染みローザンヌ声楽アンサンブルとシンフォニア・ヴァルソヴィアを率いて、今年はメンデルスゾーンのオラトリオ「パウロ」で登場。いや〜、毎年すごいプログラムだなあと。「パウロ」はちょうど今年の頭に、廉価版のボックスセットに入っていたヘレヴェッヘ盤を聴いたばかり。いきなり生音で聴けるとはラッキー(笑)。期待に違わず、すごく盛り上がった。2時間ぶっ通しだけれど、なんだかとても短く感じる。歌詞をチラシで配るのが普通の「ラ・フォル・ジュルネ」だけれど、こればかりは小冊子で300円で販売していた。が、版の違いか、後半が部分的に表記と若干違っていたような……謎(笑)。

「スアレスと形而上学の体系」1

さてさて月も変わったことだし、個人的にはスアレスについても(フランシスコ・スアレス:16世紀後半から17世紀初めにかけて活躍したイエズス会の神学者)もうちょっと取り組みを本格化したいところ。そんなわけで、まずは手始めにジャン=フランソワ・クルティーヌの『スアレスと形而上学の体系』(Jean-François Courtine “Suarez et le système de la métaphysique”, PUF, 1990)を読んでいくことにした。メモ風にまとめていくことにする。この本、裏表紙に「これはスアレスについてのモノグラフではなく、<スアレス・モーメント>を形而上学の歴史に、つまり様々な変貌に彩られたアリストテレスの形而上学の伝統に位置づけるべく、長大な期間を扱った研究である」と記されている。少し搦め手のような感じもするけれど、逆に哲学史的にはまっとうで面白そうなアプローチかも。

まずは第一章。これは序章なのでスアレスはまだ登場せず。形而上学の伝統という点から常に問題になるのは、それが他の学問とどう違うのかということ。言い換えると、形而上学はいったい何を「sujet」(主題)にするのかという問題。もちろんそれは「神」ということとされるわけだけれど、これに関してはアヴィセンナがほぼ規範となる定式化を行い、スコラ学とそれに続く長い伝統がそれに準じるのだという。で、そのアヴィセンナの定式化だけれど、まず彼は「神が形而上学固有の主題にはならない」と言い放つところから始める。限定的な個別の学問がその存在を論証したり、対象として理解したりすることはできないというのだ。とはいえ、形而上学は「神についての」探求であるということを認めるアヴィセンナは、結局、学知の「positum」(基本前提 = 主題?)と、探求の対象とを区別するのだという。つまり敷衍するならば、学問(一般)は基本前提が統一されていさえすれば個別の学問の対象がいろいろ異なっても構わないというわけで、そこには神(つまりはその存在)も含まれるということになる。形而上学は、あくまで限定的なアプローチで神の存在を捉える営み、という感じになるのだろうか。そしてこれゆえに、神学者が考える「聖なる教義」としての神学とは異なる、哲学者にとっての「神学」がきっちりと区画されることになるのだという。うーむ、なるほど。このあたり、異教的な「神学」と、カトリックの教義としての神学とが併存している中世のある種独特な混在状況の、背景説明の一端をなしているかもしれない……(?)。