新刊ウィッシュリスト

またまた備忘のための新刊ウィッシュリスト。今月はなんといっても下旬に刊行予定の1万円越え本、『中世の哲学』(今道友信、岩波書店)が期待度ナンバーワン。同じく1万円越えということでは、『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』(フランシス・イエイツ、前野佳彦訳、工作舎)も注目。いずれも現時点で予約受付中。

中世ものはほかに、「山川レクチャーズ」シリーズの6ということで、『中世ヨーロッパの教会と俗世』(フランツ・ヨーゼフ・フェルテン、甚野尚志訳、山川出版社)も予約受付中。このシリーズではピーター・ブラウン『古代から中世へ』が印象的だったっけ。中世史関連では、『フランス史1 中世 上』(ジュール・ミシュレ、大野一道監修、藤原書店)はミシュレの代表作。この1巻目はローマ帝国時代から13世紀までを活写とのこと。研究書としては『中世後期ドイツの犯罪と刑罰』(池田利昭、北海道大学出版会)あたりは面白そう。副題が「ニュルンベルクの暴力紛争を中心に」となっていて、14、5世紀の年の秩序形成問題などを扱っている模様。より気楽な読み物としては、『聖パトリックの煉獄 – 西洋中世奇譚集成』(マルクス、ヘンリクス、千葉敏之訳、講談社学術文庫)。西洋中世奇譚集成の三冊目。

古代ギリシア関係では、『プレソクラティクス』(エドワード・ハッセイ、日下部吉信訳、法政大学出版局)はぜひとも見たいところ。予約受付中のものでは、『ギリシア思想のオデュッセイア』(山形偉也、世界思想社)も期待できそうな予感。

ついでに洋書方面(のうち基本テキスト)も。最近相次いでアルベルトゥス・マグヌスの訳本が出ている。まずフランスのVrinからは対訳本で、『形而上学11巻、第2、第3論考』(”Métaphysique. Livre XI, traités II et III”)が出たし、イタリアのSismelからは、『預言についての問題』(“Questio de prophetia. Visione, immaginazione e dono profetico”がこれまた対訳で出た模様。うん、すばらしい。

Vrinからはほかにもアル・ガザーリ『イスラムと無信仰を分かつもの』(”Le critère de distinction entre l’Islam et l’incroyance”)とか、フィチーノの『書簡集』(”Lettres”)、トマス・アクィナスの『霊的被造物について』(”Les créatures spirituelles”)などが新刊で出ている。Sismelは、偽セニスの小バルトロメウス『草木論』(”Tractatus de herbis (Ms London, British Library, Egerton 747″)も個人的には注目したいところ。さらにBrepolsからは、前に取り上げたピロポノスの『世界の永続について』希独対訳本の続刊(3巻から5巻)が6月刊の予定とか。これもとても楽しみ。

「スアレスと形而上学の体系」 2

アヴィセンナによる(と著者は言う)哲学者にとっての神学と、聖なる教義としての神学の区別を、別の形で受け継いでいるのがトマス・アクィナス。というわけでクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』の第1部2章、3章はトマスが主役。基本的にトマスは、抽象性(非物質性)の高い対象を扱うほどその学問は高度なものになるという考え方のもと、形而上学を「共通に(一般に)存在するもの(ens commune)」を扱う学問として位置づけている。その際の「共通」を「述語によるもの」と「因果関係によるもの」とに分けて考えることで、神的なものの学知は、「われわれにとっての」学知と「それ自体での」学知に区別されるわけだ。で、ここで両者の関係が大いに注目される。アリストテレス的には、知性の自然な光から発する学問(幾何学や算術)と、それらの学問によって照らされるがゆえに派生的に生じる学問(光学や音楽)があり、後者は前者に依存する。とするなら、一見「われわれにとっての神学」は「それ自体としての神学」に依存するかのように見える。ところが対象が神であることで、その関係性は大きく変わってしまうのだ。「われわれにとっての神学」というその副次的に見える学知は、神という対象によって照らされるものであるがゆえに(とトマスは考える)、それは比類なき最高の学問となってしまう。このいきなりの逆転によって、哲学としての神学(われわれにとっての神学)は屹立する。そしてまさにこのことから、「一般に存在するもの」を対象とする存在論、存在神学の成立が可能になる……。

要するに著者によると、トマスの貢献というのは、神学(そのものとしての)との明確な区別を通じて、ある意味逆説的に形而上学の至高性を高めた、ということになるらしい。アリストテレスは、神的事象へのアプローチを賢慮と学知という二重性で規定しようとしていたということだけれど、トマスはそれを修正し完成させたのだ、というわけだ。この、アリストテレスの企図の修正者としてのトマスという評価は、意外に検討されていないと著者は述べている。

ペルゴレージ祭り

今年がメモリアルイヤーの作曲家の一人がペルゴレージ(生誕300年)。これに合わせてクラウディオ・アバドがペルゴレージを3枚出しているけれど、そのうちの2枚を聴く。作曲年代的には一番早い部類の曲が収められているのが、『ディクシト・ドミヌス』(Pergolesi: Dixit Dominus, Salve Regina, Confitebor Tibi Domine, etc / Claudio Abbado, Orchestra Mozart, Rachel Harnisch, etc)。曲目は表題作のほか、「主よ、あなたに告白します」「聞きも見もしない者は」「サルヴェ・レジーナ」(イ短調)など。「ペルゴレージの音楽は旋律の着想の表現性にあり、それはまさにより知的で規制的なトーンが期待される宗教音楽でとりわけ感じられる」とライナーの書き出しが言うように、まさに抒情感溢れるメロディに圧倒される。うーん、特に各曲の歌い出しとかが実に凝っている感じだ。アバド率いるモーツァルト管弦楽団(一応古楽系)も落ち着いていい雰囲気。音の流れにたゆたう感覚。

もう一枚は『聖エミディオのためのミサ』(Pergolesi: Missa S. Emidio / Claudio Abbado, Orchestra Mozart, Veronica Cangemi, etc)。表題作以外の収録曲は「サルヴェ・レジーナ」(ヘ短調)「ラウダーテ・プエリ・ドミヌム」ほか。ペルゴレージのスタイルをライナーでは「プレ・ギャラント」と称しているけれど、ほんと、圧倒的にメロディ重視。しかもそれがほれぼれするほどに美しいときている。うーん、素晴らしい。26で夭逝したペルゴレージの天才ぶりは確かに感じ取れるかも。アバドのじっくり練ったような音作りがまた映える。これも堪能できる一枚。

あと一枚は例の超有名な「スターバト・マーテル」。これは未購入なのだけれど、やっぱしそのうちゲットしておこう(笑)。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 – 5

Γ᾿

Ῥίζα τῆς κακίας τὸ σῶμα, ὥσπερ τῆς ἀρετῆς ὁ νοῦς. Ἡ μὲν γὰρ ἄνωθεν ἐκβλυστάνει ταῖς ψυχαῖς, ἡ δὲ ἀπὸ τῶν χειρόνων ἐπεισκωμάζει καὶ κάτωθεν · τὸ δὲ καταβαλεῖν εἰς γῆν, τὸ ἀφ᾿ ἡμῶν ἐκκόψαι · ἐᾶσαι δὲ αὐτήν, ὅποι παρετάχθη φέρεσθαι · τέτακται δὲ ἐν ὅλῃ τῇ γενέσει. Ἐπειδὴ δὲ τὰ κακὰ ἐνθάδε καὶ «τόνδε τὸν τόπον ἐξ ἀνάγκης περιπολεῖ», μέρος δὲ καὶ τὸ ἠμέτερον σῶμα τῆς γενέσεως, μέρος μὲν οὖν ἀκάκυντον ποιεῖν, δυνατόν, ὅλην δὲ τὴν γένεσιν, ἀδύνατον, εἰ μὴ καὶ τὸ εἶναι αὐτῆς ἀνέλοιμεν · εἰς ἣν καὶ ζῆλον καὶ φθόνον καταβλητέον ὅθενπερ αὐτὰ κατελέξατο · ὑλικὰ γὰρ ὄντα τῆν ὕλην ἔχει τιθήνην · τὸ δὲ «μὴ σβέσαι φρένι» πρὸς τὴν ἀπόκλεισιν, οὐ πρὸς τὸν ἀφανισμὸν εἴρηται, καθάπερ τὰ ἐναποσβεννύμενά τινι περιέχεται ὅλα ἐν ἐκείνῳ καὶ ἀναπίμπλησιν αὐτὸ τῆς οἰκείας θέρμης · ἀντὶ δὲ τοῦ σβέσαι κατάβαλε, μὴ ἔχων αὐτὸν ἔνδον καθειργμένον · διόπερ ἐπάγει · «Μὴ πνεῦμα μολύνῃς », διὰ τοῦ ἔχειν ἔνδον καὶ ἀποκρύψσαι.

3.

悪の根源とは身体である。善の根源が知性であるように。というのもこの後者は高き場所から魂へと流れ、前者は悪しきもの、低きところからわき上がるからである。それを地に投げ捨てるとはつまり、われわれから放逐することである。それを許すとはつまり、それが居並ぶ場所へ身を置くことである。それはすべての被造物に置かれている。悪はこの世にあり、「この世界の周りを必然的に旋回して」おり、われわれの身体は被造物の一部なのであるからとはいえ、部分的に害を免れることはありうるだろう。しかしながら、その存在を消すのでもないかぎり、すべての被造物が免れるということはありえない。ねたみや羨望は、それが登用されたその場所へとうち捨てるべきである。それら物質的な存在は、物質によって育まれるからだ。また、「精神にあって消滅しない」ものとは、排除はできても破壊はできないものを意味する。同様に何ものかの内部で消滅させられたものは、そこにそのまま閉じ込められているのであり、固有の熱でもってみずからを満たしているのである。内部にそれを留め置かないよう、消滅ではなくうち捨てるのがよい。ゆえにこう付け足しているのである。内に秘めておくことによって「プネウマを汚してはならない」と。

ワイン史

いきなり暑くなった気候のせいか、ちょっとこのところ体調が今ひとつ。そんな中、気分的に盛り上がる文化史の本を読む。内藤道雄『ワインという名のヨーロッパ – ぶどう酒の文化史』(八坂書房、2010)。これはめっぽう面白い。葡萄酒の文化史を古代文明(メソポタミアやエジプト)から古代ギリシア、ローマを経て、中世、近世、現代にまで辿ろうとする野心的な本。うーむ、壮観。各所でいろいろ興味深い指摘もなされる。たとえばホメロスに描写のあるワインと水を混ぜ合わせる器。ワインと水を合わせて飲むというのは、宗教的な意味があったのだといい、しかもそれは古代宗教の残滓なのだという。イエスがやたらと葡萄酒まわりに詳しいのは謎だという話もある(ナザレは寒冷地で、葡萄栽培はなされていないという)。「だれも新しいワインを古い革袋につめたりはしない」というのは、今では古い形式で縛るなみたいな意味で使われるけれど、当時の意味は、新しいワインには二次発酵中のものがあり、それを革袋に入れて密閉すると炭酸ガスでふくれあがり、古い袋なら破裂するかもしれないので、<誰もそんなことはしない>というものだったという。うーむ、なるほど。水がワインに変わるというエピソードについても、著者は旧約と新約が「まったく異質な宗教文化の系譜を背景にしている」と、踏み込んだ解釈をしてみせる。

ローマがもともと飲酒を制限していたという話も興味深い(葡萄酒をもともと愛飲していたのはエトルリア人)。それがカルタゴ戦役後は変質し、土地と戦利品の奴隷を投入して大規模な農業経営(葡萄園)に乗り出すのだという。葡萄酒はさらにゲルマン人の習慣をも変容させていく。ブルゴーニュ地方が開拓されるおおもとは、葡萄酒ほかの軍需品(酒は兵士の士気高揚のために必要だったのだそうな)を運ぶためだったといい、後にガリアのアロブロゲス族による品種改良で、ヴィエンヌ渓谷(それまでの北限)を越えた葡萄栽培が可能になり、そのはるか後代にシトー会による本格的な栽培が始まるという次第だ。

ロマネ・コンティの話も出ている。もともとポンパドゥール侯爵夫人が目をつけたロマネ村の特級畑(グラン・クリュ)を、敵対するコンティ公ルイ・フランソワが法外な値段で買い取ったのが始まりなのだとか。だから高いのかしらねえ(?)。ちなみに、これで憤然としたポンパドゥールは、宮廷御用達からブルゴーニュワインをはずし、ボルドーはメドックのシャトー・ラフィットを選んだのだそうだ。うーむ、なんだかなあ……。そういえば著者の内藤道雄氏というと、以前『聖母マリアの系譜』(八坂書店)がとても面白かった印象がある。そちらもお薦めかも(笑)。