ブリューゲル展

夏休みの締めくくり的に、Bunkamuraのザ・ミュージアムで開催されている「ブリューゲル−−版画の世界」展を観に行く。館内に置かれている展示一覧のリストに、夏休み向け企画ということらしく子ども向けのミニクイズとかがあって、ちょっと微笑ましい。ブリューゲルの造形の面白さを、たっぷり味わってもらおうという趣向かしら。平日の昼間だけあって入場者数はそれほど多くなく、比較的ゆっくり見ることができてうれしい。全体はテーマ別の構成になっていて、風景もの、寓意もの、船、教訓話、諺、民衆の生活などに分かれている。個人的には最初の風景ものと寓意ものが面白い。聖書の挿話を画面の隅に配置して、あとはひたすら風景描写を行うのが風景もの。ヒエロニムス・ボス風の奇妙な造形が増殖するのが寓意もの。展示品の大半は版画だけれど、ブリューゲルの素描も数点あったし、ブリューゲル本人が携わったというエッチングもあった。これがまた他とは全然表現力が違う感じで、小品ながら圧巻。

面白かったのは、楽器が二点参考展示されていたこと。一つはキハーダ(quijada:スペイン語)というロバなどの下あごをそのまま打楽器にしたもの。もう一つはリュートを葬った一因とも言われる(苦笑)ハーディーガーディー。キハーダについては、YouTubeに紹介映像などがある。実際のパフォーマンスの一例を貼っておこう。

カフカ祭り?

先週末にNHKで放映された舞台「バーコフ版『変身』」を録画で視る。3月にパルコ劇場で上演されたものらしい。これ、虫になったザムザの表現がむちゃくちゃすごくて、ホントに虫みたいに見える。演じるのは森山未來。原作の基本線をちゃんと追っている見事な舞台。カフカ原作の舞台化とか映像化とか、昔は難しいとか言われていたと思うけれど、こうしてみると、いろいろ可能性はありそうな気がする。もっとも、多くの場合、原作へのある種の「忠実さ」を追求すると、不条理さ加減ばかりが前面に出て、原作がもっているように思える(?)軽さのような部分が殺がれてしまう気はするけれど……。前に見たミヒャエル・ハネケの『カフカの「城」』などはまさに「忠実な」映像化で、未完の原作どおりにいきなりブチッと切れるように終わってしまう(ネタバレ御免)。しばらく前に入手してちびちび見たりしていたダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブの『階級関係 – カフカ「アメリカ」より』もそんな感じ。どちらもそれなりに面白くはあるのだけれどね。だいぶ昔に見たオーソン・ウエルズの『審判』とか、すっかり忘れているけれど、なにかそれらとはまた別の「忠実さ」だったような気もするのだが……。うん、確認も含めてそのうちまた見てみよう。

そういえば、先日挙げたマッキンタイアの『美徳なき時代』に、カフカ作品の「未完」性にコメントを付けている箇所があった。自分が役割を演じている限り理解可能であり続ける共同体の中の物語は、理解不可能な挿話で構成された話に変形されることがあるとして、『審判』と『城』の作中世界が挙げられている(それってちょっと微妙な読みだけれど)。その上で「カフカが自分の小説に終止符を打てなかったのは、なんら偶然ではない。<終了する>という観念は<始める>という観念と同じく、理解可能な物語を基にしてのみ意味をもつからだ」(p.261)とまとめている。ま、カフカの描く世界が語りの一貫性の崩壊世界であるというのはそれなりに納得できるけれど、そういう崩壊世界に人が惹きつけられるようなこと(だからこそ、様々な舞台化・映像化もあるわけで)は、そこからは理論的に導かれないようにも思われるのだけれど……?

「実用品の進化論」

外出先での待ち時間が異様に長かったせいで、空き時間読書として持ち歩いていたヘンリー・ペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(忠平美幸訳、平凡社ライブラリー)をほぼ一気に読了。ペトロスキーというと、以前『本棚の歴史』がなかなかよかったっけね。今回のこれはもともと95年に邦訳が出ていたもの。ここではフォークとかクリップ、ポストイット、ファスナー、大工道具などなど、実用品を中心に技術史をまとめ上げている。なかなか見事な網羅振り。そしてなんといっても、モノの進化というか変化の根底にある、どこか不条理ともいえる力学に光を当てているところが素晴らしい。必ずしも優れた技術が生き残らず、凡庸なものが勝ち残ったりするのはなぜかというあたりの、どこか悩ましい問題に、様々な事象を動員して答えようとしているかのようだ。そしてこれをもっと抽象度を上げた話に練り上げれば、たとえばシモンドンみたいな話になることもわかる。技術史のレイヤーにとどまりながらも、上層の技術哲学のレイヤーがほの見えているような、そんな感じの好著。

無伴奏チェロ組曲

古楽演奏のグループ、レッドプリーストが以前来日講演をしたとき、チェリストのアンジェラ・イーストが無伴奏チェロ組曲(どれだったか忘れたけれど)のソロを聴かせてくれた。それがまた、何やら妙にリズミカルなバッハだったように思え、ソロアルバムが聴きたいなあと思ったものだった。で、なんとそれが少し前に出ているでないの(笑)。『Bach: the Cello Suites』。というわけで、早速購入し聴いてみる……。が、ところどころ爆走したりいろいろ即興的に動いたり、独特な溜めを入れたりはしているけれど、総じて「普通」な印象の演奏。レッドプリーストに参加しているときのノリとはだいぶ違う。ま、そりゃそうか。バッハで無茶するのはナシだよなあ、やっぱり。とはいえ、もっと強烈・個性的な演奏を期待したりしていたので、ちょっと意外だった(笑)。無伴奏チェロ組曲はそんなにいろいろ聴いているわけではないけれど、Naxosライブラリとかにあるフェーベ・カライのものとか、個人的には結構いいなと思ったり……。

マッキンタイア

サンデル本に出てきたマッキンタイアのナラティブ論。話には聞いていたものの、ちゃんと読んでみたくなって取り寄せてみた。アラスディア・マッキンタイア『美徳なき時代』(篠崎榮訳、みすず書房)。なるほど、これはバリバリの道徳哲学の本。諸徳が失われた近代において、なおも道徳哲学をどう語りうるかという問題設定。そこでのマッキンタイアのスタンスはとても明快で、「個人が同定・構成されるのは、その人のもつ役割のいくつかにおいて」であり、「そうした役割とは、人間に特有の諸善がその中で(…)達成されうる共同体に個人を結びつけている」という(p.211)。小規模の共同体への帰属が諸徳の前提であって、共同体が変わればその諸徳の性質も変わってくる。「あらゆる道徳哲学には、それに対応する何らかの特定の社会学がある」(p.276)というわけで、このあたりがコミュノタリズムと言われる所以か。そしてその帰属の靱帯をなすのが、ほかならぬ物語(ナラティブ)だということになる。マッキンタイアはこれを、古代の英雄譚や中世の諸テキストなどをめぐりながら説き起こしていく。とりわけ、アリストテレスを援用した中世の「アリストテレス主義」が体現する社会的変容に執心する(?)あたりには、ちょっと共感できたりもする(笑)。

でもナラティブ論としてはどうなんだろうなあ、と少し思う。共同体内の役割を個人が自分のものにするために物語(あるいは物語的秩序)があるのだという面ばかりが強調されていて、個人が物語の側に働きかけるとか、伝統そのものの変容の契機などの話は出てこないので、とても静的なモデルといった印象が強い……。もちろん、そこで語られる物語的秩序(ナラティブ・オーダー)は個人にとっての役割モデルだけにとどまらず、「人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性に他ならない」(p.267)なんて踏み込んだ文言もあるのだけれど、それもまた主体構成的・行為論的な話とかではなく、あくまで事後的に眺めた認識論的な話にとどまっていて、ちょっと物足りない。また、「私の人生の物語は常に、私の同一性の源である諸共同体の物語の中に埋め込まれている」(p.271)として、複合的・重層的な埋め込みに言及している箇所もあるけれど、投影される共同体モデル相互の矛盾に引き裂かれる場合とかもあるし、フラットな「歴史同一性」などと簡単には言えないような気もするし……なんて。