マルコ・ダラクィラ

同時に注文したCDの入荷がえらく遅延して、結果的に大幅に入手が遅れた一枚が、リュート奏者ポール・オデットの新譜(dall'Aquila: Pieces for Lute)。マルコ・ダラクィラ(アクィラのマルコですな)の曲集。16世紀前半に活躍したリュートの奏者・作曲家。これをルネサンスリュートの名手オデットが奏でるというわけで、面白くないわけがない(笑)。で、今回の録音は残響がすごく、高音弦がまるで鉄線か何かかのようにキンキン響いて聞こえる。けれどもそれもオデットの高い技術と相まると、とても幻影的で美しい音になるから不思議だ。というわけで、これはどこか神秘的な感じさえする音楽に仕上がっている。ライナーによると、録音はもともとアクィラで行う予定だったというが、大地震があったため予定を大きく変更し、最終的にカペストラーノのカステッロ・ピッコリーミニ(お城ですな)で執り行われたのだとか。マルコ本人も知っていたはずの建物らしい。同録音は地震の罹災者らに捧げられている。

これもiTunesで手に入る。ライナーノーツはないけれど、廉価ではあるので、お薦めかも(笑)↓。

時祷書

夏休みモードなのだけれど、とりあえず松田隆美『ヴィジュアル・リーディング – 西洋中世におけるテクストとパラテクスト』(ありな書房、2010)にざっと目を通す。パラテクストというとジェラール・ジュネットが用いた、本文以外でその本文の枠付けをなす諸々の要素(近代の本なら、題名、著者名、奥付から、表紙、帯、挿絵などまでカバーする)を指す概念。なにやらなつかしいっすね、この概念。で、同書は時祷書などの写本の特に文字装飾や挿絵を、本文との関連(関連がない場合も含めて)でもって検討していこうという趣旨の本。中世の写本を、テキストとパラテキスト(個人的に、「テクスト」ってあまり書きたくない。これは好みの問題だけれど)の「対立が生み出す調和」と捉えて、個々の問題を取り上げていく。図版が多数収録されていて(残念ながら白黒だけれど、それはまあ仕方ないか)、それを眺めるだけでもいろいろ楽しい。個人的には二章の後半や三章に出てくる、暦に絡んでの世俗の占星術的な要素がとりわけ興味深い。

やっぱエスプレッソ

空き時間読書ということで何気なく読んだ島村菜津『バール、コーヒー、イタリア人』(光文社文庫、2007)の、ある意味感動的なまでのコーヒー礼賛ぶりに大いに触発され、このところ家でエスプレッソを入れるのが愉楽のひとときになっている(笑)。使っているのは直火式のエスプレッソメーカー。加圧式によるこの味わいは確かにドリッパーでは出ない。ま、水も違うし本場とはだいぶ味も異なるだろうけれど、雰囲気だけは味わえるかな。抽出に結構時間がかかるので、それを待つというのも時間のリズムがゆっくりになるような気がして好ましい(飲むのはあっという間だけど)。ちょい足しブームじゃないけれど、ミルクやアルコールなど、いろいろ加えるのも試せそう。味わいというのがちょっとした工夫で幾多にも変化するものであること、いくつもの要素から成り立っていることを体現しているのがイタリア人の知恵なのかも、みたいなことを確か、リュートの兄弟子の方が以前言っていたっけなあ。それにしても、バールが持っているというきわめてローカルな関係性というのはちょっとうらやましい気もする。様々な要因がゆっくりと堆積してできた伝統という感じが一見するけれど、意外にそう古くはないのかもしれないというところに、ほかの国や地域でもそういうものが育つ芽はどこかにあるのかもしれない、なんて空想をめぐらしつつ……。

「スアレスと形而上学の体系」 9

クルティーヌのこの本は夏休み前に読了するつもりが、ずるずると遅れてしまっている(笑)。ま、いっか。そんなわけで、第三部(一章だけで構成されている)。クルティーヌが同書で何度も提示しているテーゼは、スアレスがトマス派を自称しドゥンス・スコトゥスを批判しているにもかかわらず、その基本的姿勢ではむしろ結果的にスコトゥスを継承している、というもの。両者が重なりあう部分はいろいろあり、形而上学の下位区分(共通の存在者を扱う形而上学と、神的なものを考察に加える形而上学ということで、これは後の時代の存在論と神学の完全分離を導くことになるらしい)もそうだし、前者に絡んだ存在者の超越論的な議論もそうだという。この第三部では、とくにその「存在者の超越論的な諸相」について、スアレスがアヴィセンナ=スコトゥスの系譜の延長線上にあるということを詳細に論じている。

途中、著者は超越論(transcendentia)の用語の歴史も簡単に振り返っている。アヴィセンナの初期のラテン語訳には見あたらないそうなのだけれど、アルベルトゥス・マグヌスはしっかり使っているといい、クレモナのロランドゥスの『神学大全』が嚆矢ではないかとのこと。とにかく13世紀初頭の頃にこの語がラテン的西欧に定着し、それが意味するところはensだったりresだったり、unumだったり、aliquidだったりするようだ。いずれにせよ、transcendentiaがテーマとして定着するきっかけはやはりアヴィセンナにあり、ボナヴェントゥラのアウグスティヌス主義を介してスコトゥスその他に受け継がれていくらしい。

アヴィセンナが本質(essence)の付帯的条件(それの外的・偶有的性質が強調される)を重視するのに対して、スコラの人々はアプリオリに課される「帰結」や「付帯性」を関係性として取り出すことに腐心する。こうして、超越論的な属性の適用による事物の限定が問題になり、res、unum、aliquid、verum、bonumなどを存在者の属性としてどう位置づけるかで見解が分かれる。当然ながらトマスとスコトゥスではその位置づけはまったく異なり、決定的に違うのは、トマスが超越論的属性をratio entis(存在者の原理)の下位区分として位置づけているのに対し、スコトゥスはratio entisとは別に、何性の概念(conceptus quidditativi)に対立する性質上の概念(conceptus qualitativi)という区分を用意し、その下にそうした属性を置いていること。スアレスはというと、超越論的属性の数を三つ(unum、verum、bonum)に限定した上で、それを「存在者の同義語」と見なし(存在者は存在を排除しない一種の中立的な名称のように扱われているらしい)、そうした属性は「有限・無限」のように相互に矛盾する限定を被る(passiones disjunctae)としているらしい。するとこれが、上のスコトゥスの性質上の概念に重なってくることがわかる。とにかくスコトゥスもスアレスも、存在者というのは知性が何性を認識する際の概念・名称であるとして、それが何性とは別次元での限定を被ると考えている……ということでよいのかしら。うーむ、このあたり、なかなかに精妙でわかりにくいところだが……。

スタートレック・ヴォイジャー

ちょっと夏休みモード。地デジ対策を兼ねてフレッツテレビを申し込む。さらについでに(というか、これがメインの理由だったりするのだけれど(笑))スカパーe2のお試し。最大の目当てはスーパードラマチャンネルで連日放送されている『スタートレック・ヴォイジャー』だったりする(苦笑)。うん、スタートレックといえば、世間的にはやっぱしオリジナルシリーズとTNGが人気を二分していると思うけれど、個人的には『ヴォイジャー』がとても好きなのだな、これが。はるか外宇宙に飛ばされてしまって、そこから故郷に帰らなくちゃという話だというのがまずもって素晴らしい(マクロスのオリジナルシリーズを思わせるけれど、スケールが全然違う……笑)。ビデオリリースで出ているものはほぼ全部見たけれど、いかんせん数が少なすぎるので(TNGでは最強の敵だったボーグの一人がシリーズ途中から仲間になっていてびっくりした)、やはり全話が見たいところ。で、スカパーでの放映は170数話あったうちすでに127話とかになっている。ま、残りだけでも見たいぞ。相変わらず、アメリカのしたたかな外交を思わせる微妙な駆け引きとかが可笑しい……そりゃ禍根を残すでしょ>127話。そうそう、127話の原題「dragon’s teeth」は紛争の種を意味する表現だけれど、もとはギリシア神話(カドモスの故事:作中で説明されていた)。

ヴォイジャーはテーマ曲(Star Trek – Voyager: Main Title)もいいのよね〜。というわけで、iTunesのものを張っておこう。