非存在主義

夏読書の続きとして、グレアム・プリースト『存在しないものに向かって−−志向性の論理と形而上学』(久木田水生・藤川直也訳、勁草書房)を読む。論理式が一部多用されているけれど、そのあたりに拘っていると先に進めないので、とりあえずすっ飛ばす(笑)。そうすると、なにやら面白い話が展開していることがわかる。扱われているのは非存在主義という考え方。命題の項が指し示すものは何かという問題において、それが具体的対象であるならそれは存在していると考え、それ以外のもの(抽象的対象、可能的対象、不可能的対象などなど)なら、端的に存在しないが、それでもなおそれらに対する指示や量化は可能だとする立場のことをいうとある。シャーロック・ホームズは私たちの現実世界には存在しないし、「四角い丸屋根」なるものも存在しない。けれどもそれらが描写もしくは思慮される際には、その文脈内においては指示できるし、思考において操作できる。なにやら当たり前といえば当たり前のようなことなのだけれど、それを論理記述的に精緻化するとなるとどうなるのか……。そうした精緻化について同書の第一部が割かれている。で、その非存在主義に対する反論への対応が第二部を構成する。話として面白いのは第二部のほうで、ラッセルによるマイノング批判を、誤解にもとづく批判だと再批判していたり、フィクションの 対象と抽象的対象との違いはどこにあるのかといった問題を論じていたりして、なかなか読ませてくれる。でも個人的には第一部も興味深い。なにしろ逆説家エウブリデスの「フードを被った男」のパラドクスや、ビュリダンのソフィスマが引き合いに出されていたりするのだ。

フードを被った男のパラドクス(「君は自分の弟を知っているという。しかしたった今フードを被って入ってきた男は君の弟であり、君はその男を知らない」)を解く鍵は、「志向性」にある。これはつまり、知るといった動詞が取る目的語の外延をどこまで設定しうるかということ。「だれそれを知っている」という場合、そのだれそれがもつ特徴をどこまで知っているかが問題になるのであり、だからこそこのパラドクスが成立するわけだ。興味深いのは、14世紀のジャン・ビュリダンもまた、このパラドクスを「あなたは近づいてくる人を知っている」という形でソフィスマとして取り上げているいることだ。ビュリダンはある意味、非存在主義を先取りしていたりもするという。中世においては、志向性動詞は、それが補語とする項辞の代示を拡大できると考えられていたといい、存在しない対象、可能である対象などに拡大されることもありえたという。とはいえ、どこまでの拡大が許容されるかは論者によって異なっているようで、ビュリダンは不可能対象までは認めておらず、「非存在者が考えられる」は偽であるとされている。インヘンのマルシリウスは、項辞において想像されうる意味表示対象の代示として、部分を不自然に結合させたキメラまでは認めるものの、部分それぞれの本質を併せ持ったようなキメラは認められないとしているという。一方、パウルス・ウェネトゥス(ベネチアのパウロ:14から15世紀)などは、後者のようなキメラさえ扱えるとしているふしがあるようで、もしかするとより徹底した非存在主義者だったのかもしれない、とのこと。うーむ、このあたり、ぜひとも確認しておきたいところ。とりあえず、ビュリダンの「ソフィスマタ」はちゃんと読もうっと(笑)。