再び『コンスタンティヌス・アフリカヌスとアリー・イブン・アラッバース・アルマグージー』からメモ。もう一人の編者チャールズ・バーネットは、医学的な精気(スピリット)に関する記述をめぐって、パンテグニの異本を比較検討している(「コンスタンティヌス・アフリカヌス『パンテグニ』における精気についての章」:Charles Burnett, The Chapter on the spirits in the Pantegni of Constantine the African, pp.99-120)。サレルノと関係していたとされるバースのアデラードの著作を寄せ集めた写本というのがあるのだそうで、これの末尾に『パンテグニ』の精気についての章が含まれているという。で、これをほかの『パンテグニ』写本(バーゼル写本、リヨン写本)と比較するというところから話は始まる。このリヨン写本はほかの二つと違い、偽ガレノス『精子について(De spermate)』の一部が挿入されているという。『パンテグニ』のもとになったアルマグージーの『キターブ・カーミル』にはそのような挿入部分はなく、代わりに脳外科手術の生々しい説明があるという(魂と動物的精気が同じものだという議論のため)。その外科的記述の入った版は確実に西欧に入ってきているといい、おそらくはその生体解剖が忌避された可能性はありそうだとされている。で、この外科的記述を『種子について』で置き換えたのは果たしてコンスタンティヌス自身なのか、というのが大きな問題になる。
『キターブ・カーミル』でも『パンテグニ』でも、精気は三週類に分類されていて、動物的精気は脳で生じ、神経系をまわって動物的な諸機能を統制するとされる。心臓で生じる生命的精気は動脈をまわって活力などの生命機能を統制し、肝臓で生じる自然的精気は静脈をまわって力などの自然的機能を統制する。とはいえ、たとえば「生命的」という場合の訳語がアラビア語もラテン語もやや曖昧さが残っているのだという。ちなみにこの精気の三区分の話は、コンスタンティヌスが訳したイサク・イスラエリの『熱について』の最初の章にもあるという。『キターブ・カーミル』でも『パンテグニ』でも、続いて生命的精気がいかに動物的精気に変化するかという問題が扱われる。両者の中身がそれぞれに違ってくるのは、昔の賢者には、脳に生じる精気こそが魂だという論者と、精気は魂の道具にすぎないという論者がいたというくだりからだという。リヨン写本の『種子について』の一節では、この後にポルピュリオス、アリストテレス、プラトンなどの引用があって、どの陣営の論者も精気は魂ではないという点で一致する、という内容が続くという。この引用箇所あたりが、『精気について』からのものとなる。
コンスタンティヌスの関与問題に戻ると、ラテン語版『種子について』の二つの写本に、コンスタンティヌスが訳者だという記載があるといい、そこからして、『パンテグニ』にその一節を挿入した張本人はコンスタンティヌスという可能性は高そうだ。さらにコンスタンティヌスが複数の言語から翻訳を行った(アラビア語のほかギリシア語からも、ということ)という証言(モンテ・カッシーノ年代記を記したペトルス助祭)もあり、いずれにしても同時のモンテ・カッシーノが複数言語・文化が混淆する地であったことは確かだとバーネットはまとめている。ちなみにこの論考、補遺として『種子について』の異本テキストが収録されていて(!)大変興味深い。
*余談ながら、『パンテグニ』のヘルシンキ写本を転写したものが公開されているのを知った。→こちら(http://www.doria.fi/handle/10024/69829)