西欧中世の修道院で綿々と営まれてきたという医療行為。それは自然学的な原因と治療法の知識にもとづく実践的なものだったらしいというのだけれど(たとえ食餌療法など)、一方で病気や治療が神の決定に属しているというスピリチャルな(超自然的な)見識も支配的だった。となると、両者の摺り合わせがどう行われていたのかという疑問が出てくる。で、そのあたりについて検討を加えた小論がこれ。ベンジャミン・C・シルバーマン「修道院医療:自然学とスピリチャルヒーリングのユニークな二元性」(Benjamin C. Silverman, Monastic medicine: a unique dualism between natural science and spiritual healing, Hopkins Undergraduate Research Journal, No.1, 2002)というもの。これによると、修道僧たちは、自然学的な医療もまた超自然的なベースの上にあると考えていたという。物質世界は神が人間の利用のために作ったものであり、自然学的な医療の効果ももとをただせば神の意志にもとづいている……特に初期教父の文献にそうした見識が見いだせるのだといい、同論文ではアレクサンドリアのクレメンス(「医療によって得られた健康は、人の協力ばかりか神の摂理をも起源ととしている」)、ヨハネス・クリソストモス(「医者と医療をもたらしたのは神」)、アウグスティヌス(「人体に適用される医療は、神がその効力を与えるのでなければ役に立たない」)、バシレイオス(「医術を拒絶するのでもなく、さりとて全幅の信頼を寄せるのでもなく、理性が許すなら医者を呼ぶが、かといって神への願いを忘れてはならない」云々)などを引いている。こうして、自然学的な医療と超自然的な見識とは共存することになったのだ、と。
6世紀ごろから12世紀まで、各地の修道院では様々な専門的・準専門的医師たちが活躍することになるのだけれど、とりわけ後期になると、修道院を離れて俗世で営利的な医療行為に及ぶ者が増えていき、教会側は聖職者によるそうした医療行為への取り締まりの目を光らせるようになる。自然学的な医療行為が異教起源であることさえ問題にされるようになっていくらしい。1130年のクレルモン公会議では営利目的での医療研究が禁じられ、1163年のトゥールの公会議では、聖職者が2ヶ月以上修道院を離れることが禁じられ、また医療の実践や教育も禁じられるという。もっとも、この点は文献が曖昧らしく、実は全面的な禁止ではなかったとする解釈もあるらしい。ただ、禁止措置が実際にどう影響したのかははっきりとはわかっていないようだ(このあたりは、1277年のタンピエの禁令の解釈などとも重なって、歴史の難しさをまたしても感じさせる)。とはいえ、中世末期に修道院の医者や施療院がドラスティックに減少したのは事実らしく、自然学的医療と超自然的な見識との共生は崩れていくほかなかったという(もちろんそれは、近代的な医学へと道を開く一つの要因になるわけだろうけれど)。
↓wikipedia(de)より、中世の瀉血の挿絵(詳細不明)