先週土曜(7日)、立教と上智でそれぞれ行われたシンポジウムをそれぞれ少しばかり覗いてみた。前者のほうについても後で感想などをまとめておきたいと思うけれど、とりあえずまずは後者について。聴講したのは「ハヤトロギアとエヒイェロギア」と題されたシンポジウム。ハヤトロギアといえば、宮本久雄『存在の季節―ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』
(知泉書館、2002)を読んだのはもう随分前。その後の著作を追っているわけではないのだけれど(不勉強だが)、存在から「脱在」へというその思索を深化させているという話はどこからともなく聞き及んでいた。その脱在論というのが、今回のシンポジウムのタイトルにもある「エヒイェロギア」。もとになっているのは、シナイ山でモーセに告げられた神の名前「エヒイェ・アシェル・エヒイェ(わたしはあらんとしてある者なり)」で、西欧的なきわめてリジッドな存在論を、ヘブライ的な、より動的かつ不断に自己超出するものへと脱構築する、というのがその大元の趣旨。具体的にはアリストテレスの存在神学的解釈(ハイデガー)あたりと、モーセの神託の話あたりが対比される構図になっている(そればかりではないけれど)。絶対的な存在が実定的に屹立するのではなく、そこに他者の占める場所を明け渡すよう、流動的に転位・脱自していくというイメージ(かな?)。でも、そうなると、なぜ西欧的な思想の伝統は、ヘブライ的な動的な存在論(脱在論)を受け継がなかったのか、なぜリジッドな存在論を構築し磨きをかけていくのかという大きな疑問が残る(ハヤトロギアの文脈では、技術的文明の根源悪もそうした思想的伝統に根ざしているとして批判の対象になる)。ヘブライ語のヴァヴ倒置法(時制変換)みたいなものが、たとえばラテン語などにはないから?うーん、そのあたりの話が何か聴けないものだろうかと期待してのシンポジウムだったのだけれど、直接そうした問題には触れられてはいなかった(全体討論の前に退出してしまったので、そこでどんな話が出たのかはわからないけれど)。
とはいえ、少しばかりヒントというか、示唆的な話がないわけでもなかった。山本巍氏の提題(時間が足りないのが残念だったが)では、アリストテレス思想には本来、個というものが実体として重んじられ、自己よりも他者が優先されるという機構があり、その意味でそれはハヤトロギア的で、かつまたそこでは微小な部分において全体が見出される……というような趣旨のことが語られていたように思う。パルメニデスのようなゼロサム的な存在論ではない、可能態を重視した立場にこそ、アリストテレス思想の核心部分があるのだ、みたいな。これはちょっとあらためて検証してみたいところだけれど、仮にそうだとすると、ハヤトロギア的なアリストテレスを後代の人々がねじ伏せていった結果が西欧的存在論とそのなれの果て、ということになるのかしら。問題はアリストテレスの解釈にあったということに?おお、アリストテレス周りが俄然面白くなってくるではないの(笑)。