少し前だけれど、文庫化されたジャレド・ダイアモンド『文庫 銃・病原菌・鉄』(倉骨彰訳、草思社文庫(上・下))を読んでみた。で、以下少々乱暴な感想。同書の肝はなんといっても、技術的な事象(文字とか牧畜とかも含む)というものは同時多発的に複数の起源から出現するのではなく、ある特異点で登場し、そこから別の地域に伝播していくのだというモデルにある気がする。このモデルを採択すると、歴史上の西欧の圧倒的な物質的優位とかが比較的明快に整理できるというわけなのだけれど、個人的にはびみょ〜な違和感を感じたりもする。同モデルが、どこか偏った主体を前提にしているような気がするからだ。まったく未知だった文字や技術対象物が他所から伝えられると、受け入れる側の民族はごくわずかな時間でそれらを使いこなせるようになる。だから基本的能力は等しくもっているものの、ただ文字や技術対象物を生み出すほかの条件は整っていなかったせいで、当初は水を空けられているのだが、すぐにそれらを取り込んで追いつくことができる、というのが同書の基本線。なにやらこれ、だからグローバル化などは行き着くべき必然的な到達点なのだ、と言っているような気さえしてしまう(笑)。
同書では一貫して文字や技術対象物は「道具」として扱われているのだけれど、まがりなりにも仏系の現代思想とかを経てきた私たちは、別モデルの可能性を語れるんじゃなかったかなあ、と。たとえば文字は単なる道具じゃなく、もっと根源的なレベルをも構成している(しうる)可能性だってある、みたいな。言語が喚起する聴覚イメージと称されるものの分節は、もとよりきわめて文字的な何か(昔は痕跡とか言っていたが)だったのでは?技術対象物も同様で、そこにはどこか同化・異化の力学のようなものがあるんじゃなかったっけ?そういう議論から組み上げられるモデルがあるとすれば、西欧から持ち込まれた技術の類は、もとの民族がもっていたはずの豊かな創造性のようなものを駆逐し、均一化を押しつけてしまったという負の面のほうが強くなってしまうのだったはず。その意味での西欧文明は罪深いし、そのあたりを顧みず、同様の物質文化が他の地域で発生しなかったのは環境的条件のせいで、能力的な要因ではないとするのは、一見公正・平等な人間観のようでいて、実は西欧的な暴力行為を不問に付すという偽善的なスタンスなのではないか……なんて問うこともできる。道具立てでのみ見ないで、別様の可能性をさぐること。そこからすると基本的な問題は、なぜ西欧以外の地域は技術革新に至らなかったのかではなく、なぜ西欧はそういう暴力的な拡張性をあえてふりかざしたのか(あるいは、ふりかざすしかなかったのか)ではないかと……。