今に活かす(?)ポリテイア

納富信留『プラトン−−理想国の現在』(慶應義塾大学出版会、2012)にざっと目を通す。日本では『国家』、英語圏では『The Republic』というタイトルが通例とされている(これにもそれぞれ歴史的経緯があり、決して古くからのものではないという)プラトンの『ポリテイア』について、その近代での受容史を辿り直し、同書を現在において検証する意味を探るというもの。とくに日本での受容史を扱った第二部について高い評価を付している書評をどこかで見たように思うのだけれど、個人的にはむしろ第一部が興味深い。ポパーによる全体主義批判的な読みをただちに誤読と切って捨てないで、受容史の中に位置づけ直して再検証しようとする。たとえばイラン革命のホメイニーは、西欧側からは全体主義を導いたと批判されるわけだけれど、当人はファーラービー、イブン・バージャー、アヴェロエスなどの思想的伝統を通じてプラトンの哲人統治論を受け継いでいたという。このあたりの指摘も興味深い(笑)が、肝心なのは次の点。実情として、現実世界での哲人統治論はすぐさま僭主政治へと堕落してしまう。プラトンの思い描いた理想国は、すべての市民が理性を発揮しつつ哲人の統治下に入り、自覚的に政治参与するというもので、それは「各自が勝手に支配階層としての権利を行使する」とされる民主制に対してすら対極をなすものだ、と著者は述べている。理想国の堕落は、プラトン自身も「三十人政権」の失敗で体験したことなのだともいう。それでもなお、自説にもとづく理想の政治、堕落の危険をつねにはらんだぎりぎりの政治を、プラトンはあえて掲げているのではないか、と……。さらに第三部。『ポリテイア』をめぐっては、それが政治哲学の書なのか倫理学の書なのかといった読みの対立もこれまでにあったというが、その齟齬のもとになっているのが九巻末尾のグラウコンとソクラテスのやりとりで、著者によると、ソクラテスが単に魂の在り方ばかりか理想的な政治活動をも目しているのに対して、グラウコンはメタファーとして非政治化して議論を捉えているのだという。その上で、プラトンの意図はイデア的な理想と魂の在り方との中間にあるのではないか、とまとめている。うーむ、受容史をふまえつつテキストそのものに戻り、受容史の発端を押さえようとするこの方法論がまた凛とした風情ですがすがしい(変な感想かもしれないが)。

一四世紀のアンチ不可分論

ジャック・ズプコ「唯名論、不可分論と出会う」(Jack Zupko, Nominalism Meets Indivisibilism, Medieval Philosophy and Theology, vol. 3, 1993)という論考を読む。これは結構重要な論考のようだ。ここでいう不可分論(indivisibilism)とは、要するに数学的な点などのような不可分なものの実在を認める立場をいう。命題の真偽条件の議論に関連して、一四世紀には、点や線、表面といった数学的用語を用いた命題の場合に、そうした用語が指すものを実在とするか概念とするかで論者たちの見解が分かれていた。不可分論はそうした流れの一つで、代表的な人物としてハークレイのヘンリー(1270-1317)がいた。もちろん当時はすでに唯名論が一般化していて、そのため不可分論のマイノリティではあった。この論考は、ヘンリーも議論している「平面と球は一点で交わるか」という当時盛んに取り上げられた問題(逸名著者の自然学注解が嚆矢だというが、それはリチャード・ルフスが著したのではなかいという話もあるようだ)を取り上げ、不可分論を批判する側のオッカム、ヴォデハム、ビュリダンがどう対応したのかを検証するというもの。

ヘンリーやその後のウォルター・チャットンなどは、球が平面に接する際には「何か」において接しなければならないが、それは分割できるものであってはまずいと議論した(分割できるとしたなら、接触は一点だけにとどまらず、圧迫が加わったり相互にめり込んだりすることが導かれてしまう)。けれどもそうして掲げられた不可分の点という考え方は、アリストテレスの諸原理に反してしまう。アリストテレスは連続した大きさは無限に分割できなくてはならないと考えていたし、点同士が接触することはありえない(二つの点が同じ空間を占めることはできない)と考えていた。不可分論者側は様々なモチーフからアリストテレスの接触の議論を否定していた。論文著者によると一四世紀のアンチ不可分論には、(1)分割論:連続体は原子から成るのではなく分割可能な部分から成る、(2)非実体論:不可分なものは物理世界に存在しない、(3)無限論:連続体を構成する部分は無限に分割可能だ、といった議論がセットになっていたという。

で、論考の主役となる三者は、まさに三様の回答を示していて興味深い。オッカムは、そもそも完全な球と完全な平面があった場合には、両者は厳密な意味で「直接に」接することはできないと応える。両者が接する場合には(つまり間接的に)必ずなんらかの実体の外延が必要だというわけだ。ヴォデハムも、球と平面が接しうるのならば、それは無限に分割可能な何かにおいて接するのでなければならないとする。けれども同時に、分割可能なもの同士が直接的に接することができるようにアリストテレスの接触概念を修正しようとする。接するもの同士は外延として互いに隣接し連続しつつも、相手の境界は境界としてそのままに保つとし、かくして分割可能なものが、あたかも不可分のものであるかのようにして接触するのだと解釈する。うーむ、なかなか微妙だ。それでもここまではそれほどわかりにくい話ではない。問題なのはビュリダンだ。

ビュリダンはまた別の角度、今度は論理学的意味論からのアプローチをかける。これがなんだか妙にわかりにくいのだけれど、「球が平面と接する」という場合、両者は自立的意味(categorematic)でのなんらかの「全体」同士として接触しているのであり、その「全体」は本来的はに分割可能でなければならないのだが、とはいえ侵入しあうわけではないので、共義的な意味(syncategorematic)での全体(混じり合った感じの?)として接しているわけではない……。んん?つまりは両者それぞれの接触部分が、あくまで両者それぞれの部分をなしている(相互に相手を侵犯しない)限りにおいて、その命題(「球が平面と接する」)は真となる、ということなのかしら?でもそれだと、ヴォデハムが言っていることと中身はほとんど変わらないような気も……(苦笑)。おそらく重要なのは、分割可能なもの同士の隣接では、その「接する」部分同士が際限なくより微小なものに分割でき(これを同論文では、proportional division ad infinitum、無限までの応分の分割と表現している)、決して混じり合わないということなのだろう。不可分の点で接するということは、接する両者がその点を共有することになり、いわば「混じり合」ってしまうことになる。これは認められない、というわけだ。けれどもビュリダンは、あえて「点」で接すると言ってよいのだと考えている(!)という。ただしその場合の点は、不可分なものではなく、分割可能なもの(接する同士のいずれか)に属する限りでの点だとされている(とまあ、この論文著者の議論からは読める)。ここにおいてビュリダンは、ヴォデハムを挟んだ形でオッカムとのある種鮮やかなコントラスト(方法的にも、議論としても)を見せている。うーん、こうした理解でいいのかちょっと心許ないが、ビュリダンについてはいずれあらためて検討したい。

「等価性」にどう抗うか

震災からまもなく2年というタイミングでなんだが、いろいろ思うところもあり、ジャン=リュック・ナンシー『破局の等価性(フクシマの後で)』Jean-Luc Nancy, L’Equivalence des catastrophes : (Après Fukushima), Galilée, 2012)に目を通す。これ、すでに邦訳も出ているけれど(『フクシマの後で: 破局・技術・民主主義』、渡名喜庸哲訳、以文社)、それが出る前に原書を購入してあったので、そちらで読んでみた。副題が「フクシマの後で」になっているのだけれど、ここでの「後で」というのは、連続性よりは断絶、先取りというよりは宙吊りという意味合いだとされている。というのも、フクシマの事故が明らかにした(アポカリプスの原義だ)のは、原子力に関して本来は軍事利用も平和利用も区別などなく、ただ後付け的に文明論的な布置によって区別がなされている、ということだからだ。その技術がもたらす恐怖を前にすれば、両者はまさしく等価になってしまう。しかも、それらがもたらす結果の甚大さはあらゆる制御・廃棄の手段をはるかに凌駕してしまう。しかしながら人は、あくまで技術の改良などでその制御を図る以外に対応を考えられない。それほどまでに人は技術との相互依存関係に蝕まれていて、それなしには生きられない。そのことはなにも原子力にとどまらない。技術そのものの相互依存性もいやがうえにも錯綜し複合化し、技術が技術に取って代わるだけの「等価性の支配」があらゆるものを、あらゆる世界を覆い尽くしていく。もはや自然災害など存在しない。あらゆる災害は技術的災害、あらゆる破局は人為的な創造物の破局でしかない……。

こうした悪夢のようなヴィジョン(とはいえそれは既視感ありまくり(笑)の議論でしかないけれど)をどう打破するか。改良・改善、あるいは再生・新生といった考え方は、そもそも過去から未来へという時間軸でモノを考えるやり方だ。過去から一足飛びに未来の企図(目標)へ。そこでは現在が脱落している。改善や再生とは別の仕方で思考を練り上げるには、現在を思考の俎上に載せなくてはならない。それはすなわち、一般化した等価性に、「個的なもの」の不等価性を対峙させることにほかならないのだ、と……。なるほどこれは方途としてあまりに抽象的で弱々しい。でも、それをもっと具体的な案件へと肉付けしていくことを考えてみてもよいのかも。その意味では、これは指針の書にもなりうる(かな?)。たとえば、復興と称して行政が、地元のニーズを無視し、一方的・画一的に建設工事を進めるような事例に照らし合わせるなら(そうした話が、たとえば青土社の『現代思想』4月号(特集:大震災七〇〇日)の一貫したトーンになっているけれど)、さしあたり現時点でのそれぞれ異なる地元のニーズを細かく実現するような話として、具体的な在り方を思い浮かべられるかもしれない。もちろんナンシーが言うように人は技術から逃れられない。けれども、いかに絡め取られていようと、その網状結合の中で、不等価なものを拾い出して価値付け(嫌な言い方だけれど)していくことはできるかもしれない。そんなことを改めて考えていきたい。

ヤコポ・ダ・フィレンツェ

イエンス・ヘイラップ「ヤコポ・ダ・フィレンツェとイタリア固有の代数学の始まり」(Jens Høyrup, Jacopo da Firenze and the beginning of Italian vernacular algebra, Historia Mathematica, vol. 33, 2006)(PDFはこちら)という論文に目を通す。1307年にモンペリエで書かれたという、ヤコポ・ダ・フィレンツェなる人物の代数学の書は、当時知られていたアル・フワーリズミーの『代数学』や、アブー・カーミル、さらにフィボナッチなどのものと違う「解法」が記されているといい、しかもそれが俗語(イタリア語)で書かれていて、ほかの代数学とは別筋の系譜があったことを思わせるのだという。で、それを文献学的に考察しようというのがこの論文。注目されるのは基本となる6種類の方程式の提示の仕方で、このヤコポの場合、アル・フワーリズミーとアブー・カーミルが示す順番(フィボナッチも一箇所だけ違うのみでほぼ同じ)とはまったく違う順番で示しているのだという。しかも、ほとんど専門的な記号などを用いず、商業関係の具体的な利益とか財産の話などでそれを示しているのが特徴的なのだそうだ。また、ラテン語で書かれた代数の書と大きく違う点として、解法の正しさを示す幾何学的な証明がいっさい用いられていないことも挙げられるという。

そんなわけで論考は、文献学的な対応関係からヤコポがどんなソースを用いているのかを考察しようとするのだけれど、ヤコポの書の細かな諸特徴は個別に見ればアラブ系の文書にも見つかるとはいうものの、それらが一緒くたに入っている文書(つまりはソースの可能性が高いもの)というのはまだ見つかっていないのだという。また、ヤコポ後のイタリアの代数学の書を見ると、いずれもヤコポを出典として用いていることから、ヤコポの独自性がいやが上にも際立ってくるのだともいう。ただ、1344年に書かれたダルディ・ダ・ピサという人物の代数学はヤコポそのものに依拠しておらず、もしかするとヤコポが用いたものと共通の文書に依拠している可能性もあるのだとか。うーむ、文献学的な議論の面白さと、数学の文書の読み解きの難しさを改めて認識させてくれる(笑)興味深い論考だ。ちなみに論文著者は、このヤコポのテキスト(ヴァチカン写本)のトランスクリプションもPDFで公開している。さらにその翻訳を含む研究書(Jacopo Da Firenze’s Tractatus Algorismi and Early Italian Abbacus Culture, Springer, 2007)も出版されている。