僭主的なものがあちこちで勃興してる昨今(今回のフランスの大統領選はある意味その連鎖に歯止めをかけた……のだろうか?)、そのようなものにまつわる議論はとても重要になっている気がするが、当然ながら古典もそのとっかかりになりうる。というわけで、手元の積ん読から、加茂英臣『欲望論―プラトンとアリストテレス』(晃洋書房、2011)を引っ張り出してみた。で、その第二章「僭主の夢」を読む。プラトンは哲人政治を第一の理想とし、次善として法による統治を現実的なオプションとして示しているわけだけれど、体制として見るならば民主制の評価は低く、寡頭制の下に位置づけられている。さらにそのさらに下位に置かれるのが僭主制ということになるのだが、同書のその章は、そうした評価の基底をなしているのは何かという問題を検討している。意外なことに、そこでクロースアップされるのは「ミメーシス」の問題だったりする。
ミメーシスの構造において強調されるのは、演劇の場合に役者本人と演じる対象である他者との境界が取り払われるように、叙述の場合も語る者と登場人物との境界が曖昧になっていく点。そのような叙述の形式には至上の快楽があり、しかも自分を見失っていく快楽という意味では危険でもある。だからこそ詩人の追放といった話も出てくるわけなのだけれど、著者はこのミメーシスに、私的な饗宴(シュンポシオン)から公的な饗宴たる劇場、さらには民主制までをも貫く基本原理(というかエートス)を見いだしている。ミメーシスが浸透した社会とは、「不必要な欲望」さらには「不法な欲望」が渦巻く社会になるしかない。ゆえにそれは、頽廃的な体制とプラトンが目する民主制、さらには僭主制に親和的なのだ。そこでの僭主は民を奴隷のように支配する。その能力をプラトンは「プレオネクシア」(より多くのものを取得しようとする性向=貪欲)と称している。しなしながら、それは能力ではなく病理にほかならない、とプラトンは言う。かくして、極限的に一般化したミメーシスから脱するための方途を探るというのが、まさしくプラトンが探ろうとするテーゼとなる。学知を学び、イデアに向けて上方へと脱していくことが、その方途になるというわけなのだが……このテーゼはもっと細やかな読みを促さずにはいない(同書のほかの章もそういう問いを突き詰めていくようだ)。いずれにしても、なにやら身につまされる話ではある。マーケティングに踊らされ日々消費に走る私たちの社会は、饗宴・劇場・民主制を通じてプラトンが脳裏に描くアテナイの堕落、さらにはその行き着く先としての僭主の夢、僭主の欲望の奔出にほかならないプレオネクシアに、まさに重なっているかのよう。脱する知恵を求めて、もう少しページを繰っていくことにしよう。