アラン・ブーロー『とどのつまり(大全のもとに(?))ーー中世スコラ学の分析的用途のために』(Alain Boureau, En somme – pour un usage analytique de la scolastique médiévale, Éditions Verdier, 2011)という少し変わり種の一冊を読んでみた。ちょっと読みにくい小著なのだが、現代においてスコラ哲学の写本を読む愉しみについて、著者が思うところを語った「スコラ学の薦め」みたいなエッセイ。著者のブーローは、前に少し取り上げたメディアヴィラのリカルドゥスの『討議問題集』の校注・訳などを手がけている人物。リカルドゥスについてはその後に『自由討論集』の校注本もシリーズで刊行されているので、そのうち見てみたいと思っているが、それはさておき、ブーローのこのエッセイ本では、中世のテキストへのアプローチとして、内容的・形式的な構成そのものに注目することで、なんらかの無意識的メカニズムを見いだすような方法を提唱している。たとえば、スコラ哲学における霊魂論の射程を推し量るには、自我・超自我・無意識のような精神分析学的な概念の一種のバリエーションとして見ることなども、拒んではいられないと明言する(そうした「傍受」ないし「逸脱」は、宗教学的な伝統の広がりによって許容されるのだ、という)(第一章)。確立した自我と世界の分節との心的な葛藤を、解消するでも説明づけるでもなく、ただ変奏として示されるがままに、テキストに見いだしていくというわけだ。
そうした実例は数多く取り上げられている。ブラバンのシゲルスによるゼノンの引用から、トマス・アクィナスの「逸話」まで、多岐に及ぶ。けれども個人的に惹かれたのはとくに第二章。上のリカルドゥスの校注で著者が出くわしたという事例の数々が面白い。まず、通常の中世ラテン語にはないfunditasという言葉が出てくるというのだが、どうやらこれはprofunditas(深み)からリカルドゥスが接頭辞らしきpro(意図する方向性、正しさを示すとされる)を取り去って、ネガティブな意味をもたせようとしたものなのだろうという。次に、リカルドゥスの『自由討論集』のベルリンの写本には、写字生による誤りが散見されるといい、たとえばfestinatio(性急さ)を、fantasmatioというラテン語にない語で綴っているのだという。明らかにfantasma(亡霊)を念頭に置いた語と考えられ、人間が亡霊と化してしまう可能性という、写字生が本来のテキストから離れた意味に取っていた可能性があるという。また、同じくリカルドゥスのテキストから、fascinatio(魅了されること)のコノテーション(副次的意味)についての議論の箇所で、fascinusという語が記されている写本があるといい、もともとfascinusはファルス(男性性器)の意味でもあり、なにやら写字生もしくはリカルドゥス本人の無意識が暗に示されているかのようだという。しかも上のベルリン写本では、このfascinatioすらも、ときにfantasmatioで置き換えられているというのだ。fascinusはfacinus(悪行)で置き換えられていたりもするのだとか。手淫の暗示?ブーローが示唆するように、いずれにしてもなんらかの精神分析的なテーマが浮かび上がるかのよう。通常の校注作業で修正され、そぎ落とされていくそうしたディテールにも、また別様の光が当てられそうな感じで、興味は尽きない。