レクトン、イデア、コーラ再考(アガンベン本)

哲学とはなにかこれは想像以上に重要な一冊だ。ジョルジョ・アガンベン『哲学とはなにか』(上村忠男訳、みすず書房、2017)。タイトルからすると入門書のような感じに思われるかもしれないが、中味はまったくそのようなものではない。一言で言うなら、言語表現と意味論、言語と哲学的思考のあわい(狭間)を、古典的テキストへの参照を駆使して根底から再考しようというもの、というところか。前半後半のそれぞれにハイライトがあり、まず前半の第一章「音声の経験」は、かつてデリダが批判を試みた西欧の音声中心主義の再検討を行っている。そこで明らかになるのは、デリダによるプラトンの読み・形而上学批判が必ずしも正確ではないかもしれず、実は西欧の形而上学の伝統の根源には、はじめから音声ではなく文字が置かれていたという可能性(!)だ。このあたりの議論はとても興味深いもの。いずれにしても、個人的にも対話篇『ピレボス』などはちゃんと読みたいところ(というか、同書が参照している各テキストを網羅的に読んでいきたいところだ)。

そしてまた、特筆されるべきは後半のハイライト。第三章「言い表しうるものとイデアについて」は、ストア派の言う「レクトン」(言い表しうるもの)の再検討から始まる。そこで提示される仮説はなんとも興味深い。つまり、ストア派の「レクトン」とプラトンの言う「イデア」が実は重なり合うのではないか、というのである。例のプラトンの第七書簡には、「円」を例に、認識の五つのステップが示されている。まずは「えん」という音声、その定義、像。ここまでは可感的なものなのだが、これに四つめとして「魂のなかにあるもの」としての知識が加わり、最後にはイデアが想定される。ストア派の言うレクトンは、可感的なものはもとより、「思考の運動」たる知的なものとの符合性も排除されている。したがってそれは五つめとされるイデアに重なる以外にない……。ただ、ストア派のレクトンは、思考・言語活動との密接な関係をそのまま維持しているために(上の四つめと五つめにまたがっている)、後代の人々はレクトンを思考もしくは言語活動と混同してきたのではないか、よってプラトンのイデアも、概念と同一視されてしまったのではないか、と。

イデアの言語的表現の分析からは、「アリストテレスの解釈の不適切さ」と「プラトンの理解のより正確な理解に向けて接近していくこと」とが明らかになる、とアガンベンは主張する。プラトンはイデアを、後代の人々が考えるような実体的なものとして考えていたのではなく、「事柄それ自体」として捉えていたのではないか、というのだ。イデアは可感的な対象物と、いわば同名異義性をもっているし、可感的事物はイデアに与ることによって名前を受け取る。その意味で、イデアは名づけの原理のようでもある。プラトンは「それ自体」(αὐτός)という前方照応的代名詞でもってイデアの性質を表現し、ひいてはそれが前提のない、存在の彼方にあるような原理・始原を召喚することをも可能にしているのではないか、というのだ。ところが一方のアリストテレスは、これを「なにかこのもの」(τόδε τι)のような指呼的代名詞でもって表されているものと見なす。それはアリストテレスによるイデア批判の端緒であるとともに、イデアをまさに「普遍的」(τὰ καθόλου:アガンベンはこれを「全体にしたがって言われるもの」と字義的に訳すことを提唱している)なもの、と実体的に見なす解釈の発端にもなる。ここから、古代末期(ポルピュリオスやボエティウス)から中世を通じて継承されていくような、一般的なものを「普遍的なもの」として実体化し切り離すような考え方が展開していく(アガンベンはそれを、最悪の誤解と評している)。

さらには、イデアと場所の問題も取り上げられる。これは当然ながらプラトンの「コーラ」(場所・空間)の解釈に繋がっていく。イデアは場所(トポス)のうちには存在しないとされ(アリストテレス、シンプリキオス)、端的に知覚されないもの(άναίσθητον)だが、それが厳密には知覚の不在を知覚するという意味であるとするならば、同じくコーラもまた「感覚作用の不在にともなわれた雑多なものが混ざり合った推論によって触知しうる」とされ、イデアとコーラは「感覚作用の不在を通じて交通しあっている」ということになる、と。ここから、コーラは質料と同一視すべきではない、むしろイデアと結びつく(!)という驚くべき帰結が導かれるのだ。きわめて強烈な印象を残す、アガンベンの新たな境地、と言えるかもしれない。