法概念を扱ったテキストということで読んでみたプラトンの対話篇『大ヒッピアス』(Loeb版:Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library))。けれども例によってこれも多様な読みができる一篇。基本的に美の定義をめぐる対話ということなので、意味論の方向へと開いていくというのがまずは順当な読み方になるのだろうか。この問題については、対話は美的な行いとはどんなものかという問いから入っていくのだけれど、そこから、美しいものをそのようなものとして成立させているのは美によってか、対象から離れての美はありうるのか、たとえば有用性は美であるか、美の強度(という言い方ではないにせよ)はどのようにして決まるのか、視覚・聴覚を介した快が美なのか、全体と部分の美的な通約可能性はあるのか等々が問われていく。
ざっとネットを見ても、これらの問いを分析哲学的に整理している次のような論考が見いだされる。土橋茂樹「居丈高な仮想論難者と戸惑うソクラテス」(中央大学『紀要』第42号、1999)。同論考はとくに、具体的な議論に入っていくところでソクラテスが一人語り的に導入する「仮想の論難者」(ある者からこう問いかけられた、というソクラテスの語りでその論難者は言及されるのだけれど、後にそれはどうやらソクラテス自身であるかのように示される)に注目していて、なぜソクラテスは最初、ヒッピアスに直接向き合わないのかという点について、面白い解釈を示している。要は、ヒッピアスの当初の立論の信念に対してソクラテスが示した対立的な信念に、ソクラテス自身がコミットしておらず、それにコミットする人物を立てる必要があったからではないか、というわけだ。これに関連してちょうど思い出したのだけれど、以前読んだ山本巍『ロゴスと深淵―ギリシア哲学探究』(東京大学出版会、2000)の最初の章「鉄の孤独と対話問答法」でも、対話問答の現場にいるヒッピアスとソクラテス、そしてそこで言及される第三者的なソクラテスの織りなしについて論じていた。この三者は「わたし」と「われわれ」の微妙な間をつくっていて、ちょうど、視覚の美と聴覚の美のどちらにも共通のものがないにもかかわらずどちらも美しいとされるというソクラテスの議論に、重なり合っているのではないかという解釈が導かれている。共通するものがないことを力説するヒッピアスに従うなら、「われわれ」にないことは「わたし」にもないことになってしまう。こうしてテキストの末尾においてヒッピアスは、「一人にしてくれたら、もっと厳密なことが言える」みたいに言うのだが、対するソクラテスはそれを二人でともに探求することを促す。ソクラテスの対話志向・二人幻想のようなものが、美をめぐる議論にも投影されているということになるというわけか。