音楽の理

先に挙げたアガンベン本『哲学とはなにか』の末尾の付録「詩歌女神<ムーサ>の至芸ーー音楽と政治」では、「哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる」との書き出しから、人間がいかに「言葉を語る存在として構成」されるかを、ムーサたちの神話を通じて語ってみせる。またそれがいかにポリス(都市)的なものに結びついていたのかも論じている。そこで示唆されるのは、いわば音楽と言語との<あわい>だ。そうしたテーマを立てる瞬間から、それを語る言語もまた、詩的なものとして音楽のほうへ開かれて行かざるをえない。

ここで想起されるのは、ミシェル・セールの小著『音楽』(Michel Serres, Musique, Éditions le Pommier, 2011-2014)の最初の章だ。そちらは、やはり音(声)の発生から言葉の成立への「過程」が、オルフェウス神話として、ムーサとのやり取りとして描かれる、きわめて詩的なテキストだ。アガンベンは論考としての制約からまだ完全に自由ではないが、セールはというと完全に突き抜けた飛翔を遂げている印象だ。哲学がここへきて再び詩に、音楽に接合する様が、まさに小躍りするテキストとして示される、とでもいったところか。アガンベン本の最後の章は「序文を書くことについて」となっていて、「哲学的ディスクールは本来序文的なもの」「哲学はあらゆるディスクールを序文の位置へと運んでいくディスクールである」というテーゼも唱えられているが、セールのこのディスクールは、まさにある種の理想的な序文、軽やかな音楽的序文でもある。

余談ながらアガンベン本の冒頭近くで、ヒトという霊長目が言語をもっていることを自覚するようになったこと、つまり言語を外在化された対象として据えたことが、まさに「人間の誕生」だったと指摘している。この対象化は、果たして言語そのものの効果なのか、それとも何か前言語的な認識論的飛躍の効果なのかという疑問が相変わらず残る。律動のムーサ、音の秩序(歌唱)のムーサ、その根源の記憶のムーサ……いずれにそれが割り振られるのか、あるいはそれもまたムーサたちの<あわい>に位置づけられるのか???