断章10

Ἐπὶ τῶν ζωῶν ἀσωμάτων αἱ πρόοδοι μενόντων τῶν προτέρων ἑδραίων καὶ βεβαίων γίνονται καὶ οὐ φθειρόντων τι αὐτῶν εἰς τὴν τῶν ὑπ᾿ αὐτὰ ὑπόστασιν οὐδὲ μεταβαλλόντων· ὥστε οὐδὲ τὰ ὑφιστάμενα μετὰ τινος φθορᾶς ὑφίσταται ἢ μεταβολῆς, καὶ διὰ τοῦτο οὐδὲ γίνεται ὡς ἡ φθορᾶς μετέχουσα γένεσις καὶ μεταβολῆς· ἀγένητα ἄρα καὶ ἄφθαρτα καὶ ἀγενήτως καὶ ἀφθάρτως γεγονόντα κατὰ τοῦτο.

非物体の生命にあっては、先んじるものが確たる安定したものであり続けるなかで発出が生じるが、みずからがなんらかの消滅や変化をもたらして、おのれの下位の実体とするわけではない。したがって、存続するものは、なんらかの消滅や変化をともなって存続するのでもなく、またそれゆえ、生成と変化に消滅が与るような形で生じるのでもない。それは生まれもせず滅しもしないのであって、その意味では生成にも消滅にもよらず生まれたものなのである。

「ユリイカ」2月号

これまた滅多に買わなくなってしまった雑誌なのだけれど、『ユリイカ』2月号は久々に購入してみる。特集が「日本語は亡びるのか」で、表紙からして先の水村美苗本(『日本語が亡びるとき』)のパロディになっていたのが大きな購入動機(苦笑)。著名な書き手がいろいろとその本についてのリアクションを寄せているわけだけれど、全体的なトーンは、中程に掲載されている小林エリカの6ページのマンガが集約しているといった感じ。つまり「現地語」で文学するならそれはそれでよいでないの、ということ。水村本を後知恵的に振り返ってみると、導入部分のヴィヴィッドな、様々な言語で書いている人たちへの共感・肯定が、とくに後半の学者的筆致になるとどこか息苦しい「近代文学」擁護になってしまうあたりに、多言語主義・多文化主義の盲点のようなものを感じたりもしたのだけれど……(これはもっとちゃんと考えてみないといけない部分かも)。また、近代文学だけ特権化して教えろ、というのもどうなのか。それよりも、日本語史みたいなものにまとめて、古文(万葉集から芭蕉までひっくるめて古文というのもひどい括りだけれど)から近代までいろいろなテキストを散策できるようにするほうがよいのでは、なんて。

ひとつ面白かったのは、石川義正「ギリシャ語が亡びるとき」。田川健三の『書物としての新約聖書』を引きつつ、聖書が成立した当時のギリシア語が、「普遍語」とも「現地語」ともつかない微妙な位相(普遍語として亡びつつあった?)にあったのではないか、ということを指摘している。これはとても興味深い指摘。ローマ帝国が帝国の東側の支配を維持するために、ギリシア語を用いざるをえなくなり、結果的にギリシア語を第一言語とする人々もかえって増えてくる結果になった、といい(これは引用部分)、さらにマルコ福音書(アラム語話者が第二言語のギリシア語で書いたとされる)などがギリシア語で書かれたのも、エリート層のためではなかったともいう。うん、使用言語の移り変わりは政治的要因などいろいろなものに左右される以上、そう単純ではない、というわけだ。それらをもとに同氏は、水村本の現状分析がある種の抽象性を湛えているのでは、と述べている。うん、そのあたりも改めて考えたいところ。

「モスラの精神史」

堀田善衛がらみで読み始めたら、止まらなくなってしまったのが小野俊太郎『モスラの精神史』(講談社現代新書、2007)。堀田のほか、中村真一郎、福永武彦のフランス文学系作家が「モスラ」の原作小説の生みの親だということは聴いたことがあったけれど、詳しい話は知らなかったなあ。著者はその原作小説と出来上がった映画(1961年)を丹念に読み込み、そこから両作品世界が映し出している様々なレベルの意味作用を焙り出してみせる。我の怪獣に仮託された養蚕にまつわる日本的意味、モスラがいる南海の孤島の神話的意味(ザ・ピーナッツの歌うモスラの歌はインドネシア語なんだそうだ!)、モスラが国内に登場し破壊していく地誌の背景的意味などなど、どれも興味深いものばかり。サブカル(と言うと語弊があるが)的事象に、文学研究のある種の正統なメソッドを当てはめることによって、とても奥行きのある作品解読が結実するという見事な事例かしら。うん、扱う対象は違えど、これはいろいろ参考になる、というか大いに刺激を受ける(笑)。ちょっと個人的に残念だったのは、堀田への言及がことのほか少なかったこと。とはいえ、最後にはジブリの宮崎駿(堀田の作品集がジブリで再刊されているわけで)との絡みなどもあって、とても興味深かったり。

「善の研究」

これまたマリオンのアウグスティヌス論からの流れで、少し気になるところがあって西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)をずいぶん久しぶりに読み直した。言わずと知れた、西田哲学の初期のころの代表作(なにしろ初版は1911年)。で、あらためてその先進性に打たれる(笑)。主客の未分化状態へと言及する第一編「純粋経験」や第二編「実在」などはまさに「飽和した現象」に通じるし、あるいはまた、「精神」といった概念装置を外して考えれば、「統一力」といった概念などはドゥルーズ的なプロセス実在論の言い換えのように読めてしまう。第三編「善」は倫理学的考察だけれど、そこで出てくる「国家」(あるいはその次の「宗教」も)などのタームもまた、別様に読み替えていくことができるのではと空想してみたり(笑)。そういった方向での西田哲学研究の現況についてもちょっと調べてみたいところ。それにしても今見てみると、第四編「宗教」を中心に、アウグスティヌスが引かれているのはもちろんのこと、ドゥンス・スコトゥスやエックハルト、クザーヌス、ヤーコブ・ベーメなどが引き合いに出されている点もとても興味深い。あとスピノザとか。

中世のイリアス

失礼して再びガンダム話から入ろう(30周年なのでご勘弁)。最初期のガンダムがギリシアっぽいリファレンスに満ちているのはよく知られたところ。ホワイトベースを敵側は「木馬」と呼ぶし、シャアのヘルメットもどこかギリシアの軍の装備を思わせる。ZガンダムのZも「ゼータ」と読ませるし、ティターンズっていわゆるティタン(ウラノスとガイアの子たち)だし……云々。でも、戦場で一部のエリート戦士同士がライバルとして一騎打ちをするという構図は、ギリシアというよりもむしろ中世の騎馬試合のような感じでもあり(苦笑)、全体としてこれはどこか中世的プリズムを通して見たギリシア像を下敷きにしている印象を受けたりもする……。

とまあ、そんなこともあって(笑)、一度読みかけて中断してあった『イリアス–トロイア戦争をめぐる12世紀の叙事詩』(“L’Iliade – épopée du XIIe siècle sur la guerre de Troye”, trad. Francine Mora, Brepolis, 2003)を少しばかり眺め直してみる。1183年から1190年ごろに、エクセターのジョゼフという英国の聖職者が書いたラテン語の叙事詩の一部を羅仏対訳で収録した本。これの序文に、トロイア戦争の中世での受容に関してのごく簡単なまとめがある。それによると、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』のギリシア語原典がビザンツの大使からペトラルカにもたらされるのが1353年だそうで、それ以前には、1世紀ごろのラテン語訳イリアスを始めとする各種ラテン語版のトロイア戦記(4世紀から6世紀にかけてのもの)がまずあって、次に11世紀以降に詩人たちが古来のテキストをもとに詩作を始め、さらに12世紀から13世紀にかけてラテン語版の叙事詩と、それに次いで世俗語版が多数出てくるのだという。トロイア戦争ものは、「11世紀から12世紀にかけて、詩的想像力の特権的トポスになった」のだそうだ。そうした動きの背景に、12世紀ごろの都市化と識字率の高まりや、系譜への関心の高まりなどがあるという。まさに12世紀ルネサンスの中核部分を占めていたというところか。