「中世の狂気」その2

少し前に挙げたミュリエル・ラアリー『中世の狂気』。雑用その他で中断し、いろいろ難航しつつ、やっと読了。文学作品や図版など様々な史料を活用していて、そのあたりはとても興味深いのだけれど、いざ本格的な疾病学・病理学的な話とか治療の話とかになると、意外に淡泊だった印象。一昨日記したことにも関係する感じもしないでもないけれど(笑)、フーコーがかつて17世紀を狂人たちの「大拘禁時代」とした際、それ以前からも病院・監獄への狂人の収容があったと付記したことを受けて、ジャン・アンベール『フランスの病院の歴史』という本(81年刊らしい)では、14世紀に排除の意志による狂人の収容があったみたいなことを述べているのだそうだけれども、ラアリーは、たとえそうだとしてもそれ以前の事情は複雑だった、と若干の留保を加えている(p.286)。12世紀から13世紀にかけては、そもそも入院施設は貧者の介護所だったとし、実際に当時の狂人たちはほかの入院患者に混じって院内で生活していたという。もちろん、一方では狂人が周縁化し排斥されていく事実もあったというのだけれどね。総じて同書は、中世世界の二面性、矛盾するもの同士の混在、多義的な意味世界を繰り返し強調している感じ。なるほど、当たる史料が少なければかかってしまうかもしれないバイアスを取り除こうとすれば、必然的にこうした総覧的な記述にならざるをえないということなのか……。こういうテーマでの歴史記述は難しいのだろうなあ。

刷新の時代

平井浩編『ミクロコスモス – 初期近代精神史研究第1集』(月曜社、2010)を眺めているところ。ちょうど昨日、出版記念のトークショーがあったらしいけれど、残念ながら別の用字で行けなかった。編者は欧米で活躍している研究者で、その筋の有名サイトBibliotheca hermeticaの主宰。そこでの日記を読むに、てっきり国内での研究・出版なんかはまったく見向きもしないのかしらと思っていたので、この刊行は意外だった(ちょっと誤解していたかも。反省)。若手の研究の「販路」が乏しいと言われて久しいだけに、こうした論集を待望する向きは少なからずいるはず。編者の巻頭言にある「オーディエンスそのものを開拓し育てていく」というのも好印象。そうよね。裾野が広くないと屹立するものが出てこなくなってしまう。サッカーの日本代表を強くしようと思ったらやっぱりJリーグを育てないと、みたいな(笑)。

で、この論集、中身も粒ぞろいの論考が目白押しで、かなりの読み応え。ルネサンス以降の思想史も複雑なだけに、個人的にはなかなかスコープが定まりきらないのだけれど(苦笑)、大筋の(というか通念・通俗的な)理解すら、新しい研究によっていろいろな修正がほどこされないといけないことを痛切に感じる。たとえば菊池原洋平「記号の詩学 – パラケルススにおける「徴」の理論」では、冒頭にいわば枕としてフーコーの主張の話が出ていて、その歴史学的には大雑把な主張がその後、より細やかに、しなやかに深く探求されるようになった、みたいにまとめられている。今求められているのはやっぱりそういう各論的な細やかさだろうなあ、と。それによって通念が刷新されていく、あるいはそういう刷新が本格的にクローズアップされていくフェーズなんだろう、きっと。

論集の中でとりわけ個人的に興味深いのは、東慎一郎「伝統的コスモスの持続と多様性 – イエズス会における自然哲学と数学観」という論考。「16世紀のアリストテレス主義は、中世大学におけるアリストテレス主義とは別個に考える必要がある」(p.204)とのことだが、具体的にどのように、どれほど違うのか興味あるところ。同論文もその一端を示してくれている感じではあるけれど、「イエズス会の哲学が実際にどのようなものであったかに関しては、16世紀のアリストテレス主義全般の場合と同様、まだ研究が緒についたばかりである」(同)とのこと。イエズス会といえば、個人的にはスアレスとかに関心があるのだが、まだあまり手をつけていないなあ……(苦笑)。そのあたりもふくめ、そうした研究動向はぜひ注目していきたいところだ。

「神曲」祭り?

NHKの「芸術劇場」で昨日放映していたロメオ・カステルッチ演出の『神曲 – 地獄編・煉獄編・天国編』(一部ダイジェスト)を録画で視る。2008年のアヴィニョン演劇祭などの映像。ダンテの『神曲』の、かなり自由な翻案というか。とくに地獄編は、ひたすら寡黙で鮮烈なイメージが次々に繰り出される舞台。反復される動作、痙攣する身体などなど、テレビで見ても圧倒されるのだから、実際の舞台はさぞ強烈でしょうねえ(これ、昨秋に国内でも上演があったようだ)。素晴らしい。なにかこのところ「芸術劇場」は充実している感じ。先週も『ヴォツェック』とピエール・アンタイのチェンバロ演奏の二本立てだったし(それにしても凄い組み合わせだな、これ)。来週はミンコフスキーのハイドンだそうだ。また録画しよう(笑)。

それはともかく、『神曲』といえば、ギュスターブ・ドレの挿絵入り抄訳本が10数年ぶりに新装で出ている。『ドレの神曲』(谷口江里也訳、宝島社)。一種のバンドデシネとしても読める渋い本。本の雰囲気として、だいぶ昔に出ていた寺山修司訳の『ラインの黄金』とか思い出す。ちなみに、訳者のあとがきによると、ドレの挿絵本『神曲 – 地獄編』が初めて刊行されたのは1861年だそうだ。

さらに『神曲』といえば、これまた「インスパイアド」(?)だというアドベンチャーゲーム(というのだろうか)も2月に出ている。『ダンテズ・インフェルノ』。なにやら大鎌持って地獄の番人たちをなぎ倒していくというもの。なんのこっちゃ。年齢認証があるのは、ホラー系ゲームだからってことでしょうかね。うーん、ま、個人的にゲームはやならいので、別にいいんですが……。それにしてもこう『神曲』が重なると、なにやらお祭りという感じにも思えてくる(笑)。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 10


25. Τὸν δὲ ἄνθρωπον, καθόσον ἐστὶ σύνθετος καὶ εἴδη πολλὰ καὶ συγγενῆ τοῖς ἀλόγοις ἔχει, τῷ κόσμῳ ἐνέθηκεν ὁ πάτήρ πᾶν γὰρ σύνθετον τοῦ κοσμοῦ μέρος ὄν, ὑπὸ τὸν κόσμον τάττεται · τὸ δὲ νοερὸν πῦρ ἄνωθεν ἥκει καὶ μόνης δεῖται τῆς οἰκείας πηγῆς · εἰ δὲ συμπάθοι σώματι, θεραπεύειν ἀνάγκη καὶ ὑπὸ τῇ μοίρᾳ τετάχθαι καὶ ὑπὸ τῆς φύσεως ἄγεσθαι.
26. Καὶ προῆλθε μὲν ἀπὸ τῆς πηγαίας κατὰ βούλησιν τοῦ πατρός, ἔχει δὲ καὶ αὐτόγονον οὐσίαν καὶ αὐτόζῳον · εἶδος γάρ ἐστιν ἄϋλον καὶ αὐθυπόστατον.

25. 人間は複合的であるだけに複数の種があり、非理性的なものに属していて、父なるものがそれをコスモスに置いたのである。なぜかといえば、複合的なものはすべてコスモスの一部をなしており、コスモスによって秩序づけられているからである。知的な火は上方からやって来て、それ自身の源しか必要としない。それが身体を哀れむ場合、必然的にいたわることになり、かくして定めに支配され、ピュシスに担われるのである。
26. また、それは父なるものの意志により源から進み出、その本質はみずから生まれ自生する。なぜならその形相は非物体的で、自生的に存続するからである。

ボッケリーニ

昨晩だけれど、久々にコンサートに行く。昨年秋の腰痛以来、なかなか外部の催しには行けないでいたけれど、ようやくリハビリ(笑)。公演は、初来日だというキアラ・バンキーニ&アンサンブル415(この名称、たぶんバロックでよく使われるピッチ(415Hz)が由来でしょうかね)によるボッケリーニ。これは珍しいプログラム。前半は弦楽五重奏曲を二つ、後半は「スターバト・マーテル」。このスターバト・マーテルも、弦楽五重奏にソプラノ(マリア・クリスティーナ・キール)というとても面白い編成。ボッケリーニ考案の編成なのだとか。なんだか久々の生音が、とても柔らかに響いた。ソプラノとの絡みも、声量といい全体の雰囲気といい言うことなし。悲痛な感じの出だしから、喜びの曲想に波打つように変化し、また短調で締めながら栄光を歌い上げる、みたいな。ボッケリーニって結構いいかも……って、こういうのはやっぱし生音でないとわからない気がする。今回の公演はもう一つ副題「さよならカザルスホール」が付いている。3月末で閉鎖するなんて、実にもったいない(ホール設立からわずか22年)。うーん、なんなんでしょうね、この文化事業の短命さは……。なんだか激しく情けない……。