第二部第四章からメモ(本文全体の要約ではありません)。「存在者」「非在者」の区別を考えるために、著者はスアレスのテキストではなく、いきなりその後世の発展形を探ることから始める。17世紀からカントにいたるドイツの「大学哲学」(Schulmetaphysik)だ。詳細は思いっきり省くけれど、そこではまず、「可能」と「不可能」が区別されるといい、「存在者」を「可能なもの」から決定づけるというやり方の根底には「無」と「何か(有)」という対立が横たわっているという。その意味で、その「何か」は「存在者」というよりも「モノ」(Ding)という概念のほうがしっくりくることになる。「存在者」と「モノ」の同一視という意味で、それはまさにスアレスの残響をなす……。
著者によると、上の「無」を「否定的無」ととらえる基層があって初めて、形而上学は「存在論」(近代的な)として成立する。その分岐点というか出発点となるのが、著者の考えではどうやらスアレスの形而上学ということになるらしい。「無」が「否定的無」(=不可能性)として見なされるということは、逆に「有(存在者)」が肯定的な「モノ」と捉えられることを意味する。その場合の「モノ」というのは、モノ性(objectité)自体にまで抽象化されたモノのこと。スアレス言うところの「ens in quantum ens reale esse」(これ、「実在である限りの……」と訳すのはよくなさそうで、むしろ「現実的存在者である限りでの存在者」みたいにしないといけないかも……反省)は、まさにそうした抽象的なモノに対応する。それはまた、実在性を捨象した「ありうる」存在のことで、まさしく「可能なもの」でもある。ドイツの大学哲学はスアレスの形而上学をラディカルにしたものだという所以だ。この、存在論へと形而上学が傾斜していくその第一歩は、エギディウス・ロマヌスあたりに認められるともいう。
「無」と「有」の関係から存在論が成立するのだとすると、問題になってくるのが存在者の被造物としての性格だ。ボナヴェントゥラやトマス・アクィナスが引かれているけれど、伝統的に、被造物はそれ自体では「非在=無」である(神によって存在は与えられる)という考え方は長く温存されてきた。エックハルトにおいても、被造物のあり方を存在と無の緊張関係から説き、神と被造物の間に明確な線を引く。ところがスアレスにいたると、その関係性をひっくり返し、被造物を分有(神の存在への与り)的に「有」であると考えようと企てる、というのだ。つまりは被造物としてのあり方を捨象し、神への存在論的な依存を排するというわけだ。被造物の裏側に貼り付いていたもともとの「無」は、剥がされて別次元の「否定的無」(不可能性)へと追いやられ、同時に表側の「有」は被造物という性格を失って「肯定的有」(可能性)へと転じていく……。うーむ、なんと大胆な転換であることか……(?)