スアレスが唱える形而上学の対象は、「可能性」としての存在者だという話になった。で、第二部第五章は、ならばこの可能性とはどのようなものなのか、という観点でスアレスの議論を眺めるという趣旨となっている。で、まずこれは、ガンのヘンリクスなどが提示する(とスアレスは言う)可能態の自律した秩序、神そのものも与り知らないとされる秩序を批判するものなのだという。スアレスは、「現実としてあるものは創造されたものである以上、存在を与える神の決定に対して後続する関係にある」とし、かくしてスコトゥスの考えるような「認識された存在」のごとく、存在の現勢化を考慮しない、あくまで存在するものの「名称」を問うにとどめるのだという。
さらにスアレスは、神がもたらす絶対的な可能態という意味での絶対的可能性を肯定的なものとする(否定的定義に対立する)。つまりそれは無ではない何かであって、しかもそれは神という絶対的な力によって担保される何かということになる。また、角度を変えて今度はその神の端的な知性が可能態をいかに認識するのかということを思い描くと、可能態そのものにはやはりなんらかの内在的な現実がなくてはならないということになる。スアレスはそれを「存在に向かう性向」(aptitudo ad existendum)と称する。これが著者の言うところの「モノ性」だ。スアレスにおいて、こうした可能的存在は、理性的存在(理性が捉えた存在)に対して、実在しうるという意味での余剰性を持つのだけれど、著者によれば、それはほとんど無に近いような余剰性だ。けれども、かくして導入されたこのわずかな実在性・現実性が、形而上学の転換という大きなギアチェンジをもたらすことになる……(?)