ステンドグラス修復小史?

ちょっといつもとは違う分野の論文を眺めてみる。ゴットフリート・フレンツェル「中世ステンドグラスの修復」(Gottfried Frenzel, ‘The Restoration of Medieval Stained Glass’, Scientific American, Supplement: Science and the Arts (1995))。ステンドグラスの修復プロジェクトを率いている修復師のレポートらしい。個人的には興味はあるものの、あまり馴染みのない分野だけに、なかなか斬新で面白い(笑)。ヨーロッパ各地の教会のステンドグラスが、大気汚染などの脅威に晒されている実情とか、融点の違いでできあがったグラスの耐性が異なるとか(ゴシック期よりもロマネスク期のほうのものが持ちがいいのだとか。一番優れているのはやはりルネサンス期)、シャルトル大聖堂の青色(ロマネスク期から初期ゴシック期)はほかの色に比べて耐性が高いとか、さらには19世紀ごろからの修復手法がかえって損壊を進めたといった話とか。近代以降、中世の遺物は顧みられず、19世紀になって見直しが始まったものの、かつての技術的な伝統はとうに失われていて、やっと20世紀になって試行錯誤が始まったという「修復小史」がとりわけ興味深い。このあたり、古楽などの復興とかとまったくパラレルな展開を見せているのだなあ、と。また修復技術が比較的短い期間で大きく進展しているあたりのことも見逃せない。この論文は95年の刊行ということなので、今はさらに違っているのかも。最新情報とかも探してみたいところ。

↓ソワッソンの教会のステンドグラス(13世紀、仏版wikipediaから

プセロス「カルデア神託註解」 13

Τελεστικὴ δὲ ἐπιστήμη ἐστὶν ἡ οἷον τελοῦσα τὴν ψυχὴν διὰ τῆς τῶν ἐνταῦθ᾿ ὑλῶν δυνάμεως. Τοῦτο γοῦν φησιν ¨ἱερῷ λόγῳ ἔργον ἑνώσας¨, τοῦτ᾿ ἔστι συνάψας τῷ ἱερῷ λόγῳ τῆς ψυχῆς ἤτοι τῇ κρείττονι δυνάμει τὸ τῆς τελετῆς ἔργον. Καὶ ὁ μὲν καθ᾿ ἡμᾶς θεολόγος Γρηγόριος λόγῳ καὶ θεωρίᾳ τὴν ψυχὴν ἀνάγει πρὸς τὰ θειότερα · λόγῳ τῷ καθ᾿ ἡμᾶς τῷ νοεροτέρῳ καὶ κρείττονι, θεωρίᾳ τῇ ὑπὲρ ἡμᾶς ἐλλάμψει. Ὁ δέ γε Πλάτων λόγῳ καὶ νοήσει περιληπτὴν ἡμῖν τὴν ἀγέννητον οὐσίαν τίθεται · ὁ δὲ Χαλδαῖος οὐκ ἄλλως φησὶν ἡμᾶς ἀνάγεσθαι πρὸς θεόν, εἰ μὴ δυναμώσομεν τὸ τῆς ψυχῆς ὄχημα διὰ τῶν ὑλικῶν τελετῶν · οἴεται γὰρ καθαίρεσθαι τὴν ψυχὴν λίθοις καὶ πόαις καὶ ἐπῳδαῖς καὶ εὔτροχον εἶναι πρὸς τὴν ἀνάβασιν.

儀礼的な学知とは、下界の物質の力によって魂を導くもののことである。ただし「聖なるロゴスの働きと一つに」すべしと言っている。つまり、儀礼の働きを魂の聖なるロゴスと、つまりは上位の力と一つにするということである。われわれの神学者グレゴリオス(ナジアンゾスの)も、ロゴスと観想によって神に向かって魂を高められるとしている。ロゴスによってとは、われわれのもとにあるより知的かつ上位のものによって、観想によってとは、われわれの上方から照らすものによってである。またプラトンは、ロゴスと知性によって、われわれが生成したのではない存在を抱くよう仕向けている。カルデア人はというと、われわれが神に向かって高まるのは、魂の乗り物(オケーマ)を物質的な儀礼を通じて強化する場合以外にないと述べているのである。なぜならその者は、魂は石や草、呪文によって浄化でき、上昇に向けて回転すると考えているからだ。

W.F.バッハのカンタータ

いわゆる大バッハの長男、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ。2010年は生誕300年だったのだそうだ(まったくノーマークだった……)。というわけで、DVDで出たそのカンタータ演奏を視聴する。『バッハ、ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-1784)/Cantatas: R.otto / L’arpa Festante Mainz Bachchor Etc』という1枚。マインツにあるアウグスティーノ教会での世界初録音とのこと。教会内部の見事な天井画などが映し出される映像も見応えがある。演奏がまた実に素晴らしくてぐいぐい引き込まれる。演奏するのはマインツ・バッハ合唱団とラルパ・フェスタンテ。指揮はラルフ・オットー。どうもバッハの子どもというと、次男のC.P.E.バッハとかが有名な感じがするけれど(石井宏『反音楽史』では末っ子のヨハン・クリスチャン・バッハが高い評価を受けていたとされていたっけ)、この長男だってなかなか素晴らしい曲を手がけているでないの。残念なことに第二次大戦で作品の多くが失われたという話だけれど、チェンバロ協奏曲とかソナタとかは残っているらしい。で、今回はカンタータ4曲とシンフォニア1曲の収録。全体として、晴れやかでのびのびとした曲想が妙に映える感じで、個人的にはとても気に入った(笑)。

政治哲学の曙 2

アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』。後半部分についても基本線を押さえておこう。ドゥンス・スコトゥスは質料を不定形の受容体とは見なさずに、形相とは分離した(分離可能な)一つの客観的存在と考えた。これはそのまま政体の議論にも平行移動される。つまり、政治形態(形相)とは別に、群衆(質料)はそれ自体ですでにして組織だっており(その組織化の原理に自然法や社会契約の考え方が胚胎している)、一つの客観的存在と見なすことができるという考え方だ。後にスアレスに引き継がれるこの考え方は、大きな断絶をなしている。それまでの神権政治の考え方(それはつまり形相がすべてを統制するという立場)に代わり、群衆が政体もしくは指導者を選択するという考え方、民主政治の萌芽が、まさにそのスコトゥスの質料論にあったのではないか、というわけだ。オッカムにおいてはいっそうラディカルに、すでにして組織だった群衆(社会的身体)に対して、指導者(教皇や君主)を立てる必然性すらなくなってしまう。近代的政教分離の萌芽、アナーキズムの萌芽、……。

もちろん民主制自体は古代からあるわけで、どうやら著者は、そちらでも理論的支えをなしていたのはアリストテレス思想だったと見ているようだ。そちらの質料形相論では、質料と形相とに同じ実体の二つの面を見ていた。その質料形相論は、アナロジカルな思惟の構造を決定づけたという意味で、西欧においてもっとも包括的かつ普遍的な思想だった、と著者は考える。スコトゥス=オッカムの思想はその一つの亜種をなしているにすぎない、みたいな。とはいえ、近代初期の政治思想を長きにわたって支えることになるのは、その亜種にほかならなかった、と。

スアレスにおいては、群衆は自然な目的(つまり共通善)によってすでに統合された「神秘体」を形作っているとされ、その「民主制」こそが自然本来の状態だとされる。そこにおいて君主には政治的統一の権限が委託されるわけなのだが、実際には一度委託されてしまうと罷免できないという意味で、神秘体の側からすると、いわば自然法・自然状態の放棄なのだとスアレスは論じているらしい。なるほど自発的隷属の起源が、そこに見て取れるというわけか……。著者はこれとの関連でスピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ミル、そしてルソーを、一気に駆け抜けてみせる。

著者の議論全体を集約し下支えしているのは、なんといっても、スコトゥスやオッカムの質料形相論が、彼ら自身の政治思想、ひいてはその継承者たちの政治思想を「アナロジカル」に支えているという、その一点に尽きると言えそうだ。著者はみずからの方法論を「思惟の構造の分析」と称して、そうしたアナロジカルな思惟の拡がり具合を例示したりもしている。うん、細部にはおそらくツッコミどころもありそうだけれど、巨視的にはなかなか面白い議論。アリストテレス思想の近代までの拡がり具合を、政治思想の面から示してみせた、というところが刺激的だ。

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