この一週間のtweets : 2011-01-17から2011-01-23

中世の「メディア」

これも昨年末に刊行された『西洋中世研究 No.2』(西洋中世学会編、2010)。特集が「メディアと社会」ということで、早速取り寄せてみた。いやおうなしに期待も高まる(笑)。で、この特集を構成する5つの論考は、どれも期待にたがわぬ力作揃いだった。赤江雄一「中世後期の説教としるしの概念」は、14世紀のジョン・ウォールドビーという修道士の説教を題材に、説教が天と地を繋ぐ媒体としていかに機能したかを考察するというもの。とても興味深いのは、クィンティリアヌス(1世紀)の記憶術をなぞったかのような方法を、そのもとのテキストを知らぬまま(15世紀にやっと再発見されるため)活用しているという指摘。古代の記憶術の伝承が別の形であったのだろうか、とこちらの好奇心を大いに刺激してくる(笑)。木俣元一「メディアとしての「聖顔」」は、マンディリオンとかヴェロニカとかのキリストの聖顔のイメージが、13世紀のイギリス写本で展開する様を追っている。ヴェロニカ信仰がバチカンではなくイギリス側の事情で展開していったらしいことが指摘されている。聖遺物ではなく、イメージだというところがまたなんとも興味をそそる。

青谷秀紀「プロセッションと市民的信仰の世界」は、いわゆる行列もまた天と地を結ぶ媒体であった様を、南ネーデルランドを舞台に描き出している。公的なスペクタクルとして、処刑と行列の記述が併存しているという史料から、罪と贖罪というテーマが浮かび上がってくる。そしてそれは権威・権力の確立にも密接に関係している、と。伊藤亜紀「青を着る「わたし」は、14世紀末から15世紀に活躍した女性作家クリスティーヌ・ド・ピザンについての論考。挿絵に登場する本がつねに青の衣装を纏っていることから、その多様な意味を掘り起こそうとしている。土肥由美「受難劇vs.聖体祭劇」は、文字通り両者の諸特徴を比較し、そこに担われている社会的・宗教的意味を浮かび上がらせようとする試み。14世紀半ば過ぎに聖体祭行列に「演劇的所作」が持ち込まれることで成立したとされる聖体祭劇では、磔刑の描写は象徴的なものにとどまった(ホスチアとの関連が指摘されている)とか、初期の受難劇がユダヤ教に対するキリスト教の優位やメシアの正当性を表現しているとか、興味深い指摘がいろいろ続いている。

特集以外の寄稿論文はまだ読んでいないのだが、これも面白そうな題目が並んでいる。あと、巻末に40ページも費やされている新刊案内が重量・中身ともにすばらしい。今回は史学系の論考が多かったけれど、No.1がそうだったように、やはり分野混淆的にいろいろ掲載してほしいものだと思う。思想系や音楽学系とかも頑張ってほしいところ。これからも期待しているぜ>西洋中世学会(笑)。

「予言」の略史……

単著なのかと思ったら論集だった(笑)のが、リシャール・トラシュスレール編『いとも曖昧なる言葉 – 中世の預言研究』(“Moult obscures paroles – Études sur la prophétie médiévale” dir. Richard Trachsler, Press de l’Université Paris-Sorbonne, 2007)。聖書などにも登場する「預言」だけれど、ここで扱われているのはもっと広い「予言」というか「占い」。つまりは中世の「占い」観についての論集ということになる。全体は二部に分かれていて、前半は予言の総論に当たる論考が4本。後半はアーサー王伝説に登場する予言者メルラン(マーリン)についての論考が4本。比重は後半が大きい(60ページの長尺論文が一つある)。

とりあえず個人的に関心があるのは前半。ドリス・ルーエ「中世の占い、理論と実践」(Doris Ruhe, ‘La Divination au Moyen Âge – théories et pratiques’)は、中世の代表的な文献を通じて、教養層(神学者)と大衆のいずれについても未来の予言について関心が深く、占星術も一般化していたことを改めて論じている。西欧の場合、マルティアヌス・カペラの「メルクリウスとフィロロギアの結婚」の影響のせいで占星術(=天文学)は詩的・寓意的な側面が強かったといい、「アルマゲスト」などをもとに数学的な面の教育が主流となるのは13世紀後半からだという。代表的なものとして挙げられているのは、サクラボスコのヨハネス「天球について」、ジョヴァンニ・カンポ・デ・ノヴァラ「天文学の鑑」、サン=クルーのギヨーム「王妃の暦」、メスのゴスアン「世界の像」、さらに逸名ものとして「天文学入門」「シドラックの書」などなど。うーむ、どれも面白そうだなあ。ちなみにこの「シドラック(インド人の意)の書」は、前半の最後にエルネストペーター・ルーエという人が詳しい論文を寄せている。

また、個人的に眼を惹かれたのがアレッサンドロ・ヴィターレ・ブルアローネ「予言者が正しいとき – 長い伝統」(Alessandro Vitale Brouarone, ‘Quand le prohète a raison – une longue tradition’)の一節。セム系の預言者の特徴が、未来予知というよりも、深い洞察力にあるとされるのは、セム語の時制が過去、現在、未来を基本的に区別せず、むしろ完了か進行中かの相だけを問題することと関係しているのでは、としている。なるほど、これは面白い着眼点(笑)。論考そのものは、予言に否定的だったキケロから、キリスト教での預言解釈(ペトルス・ダミアニが引かれている)を経て、後にそれが風刺詩などの対象になるまでを俎上にのせ、特にこの最後の、世俗化していく中での予言者像が、揶揄と批判との狭間で揺れ動いている様を示してみせている。

「イメージの網」

昨年末に出た注目作、リナ・ボルツォーニ『イメージの網 – 起源からシエナの聖ベルナルディーノまでの俗語による説教』(石井朗ほか訳、ありな書房)をざっと読み。いきなりドミニコ会の説教の話から始まる。説教師が当時の絵画のイメージをどう取り込んで受容させたかという問題が扱われている。ドミニコ会と絵画という点で、ディディ・ユベルマンの『フラ・アンジェリコ – 神秘神学と絵画表現』を思い出した(笑)。そちらは、ドミニコ会の神学がどのように絵画に「コーディング」されたかを追ったものだったけれど、こちらはちょうど方向性が逆で、絵画(に表されたイメージ)がどのように説教に「コーディング」されているかという話になる(のかな)。説教が絵画の解読格子を用意していたというのがとても興味深い。イメージとテキストの相互作用?いやいや、それらは複合的に一体化しているのだと著者は言う。「(……)先に言葉があってそののちにイメージがあったということではなく、またその反対でもない。むしろ私たちは、一方を他方から厳密に区別することが正しくなく、あまり有益でないような、何かを目の前にしている」(p.61)。

扱われるイメージも多岐に及んでいて、「知恵の塔」「系統図」「車輪」「階段」などの概念図などが順次取り上げられる。ルルスやヨアキム(表紙になっているが)の用いた図も当然のごとく触れられている。それらが、シモーネ・ダ・カッシナの『霊的対話』とか、ヤコポーネ・ダ・トーティの『讃歌集』などのテキストと関連づけられる様はなんとも興味深い。そしてクライマックスは、シエナのベルナルディーノ(15世紀)の説教の話。そこでは当時の絵画表現が、ある意味独創的に活用されて説教に取り込まれているといい、その説教の世界は、様々なモチーフが絡み合う、さながらイメジャリーの集大成のよう……最も長い第四章でもって、同書はそのことを実に強く訴えかけてくる。なるほど、説教研究って一つのトレンドになるわけだ(笑)。

この一週間のtweets : 2011-01-10から2011-01-16