エピファニーによせて – Magiの表象

昨日はエピファニー(公現祭)。そんなわけで、Medievalist.netあたりが、東方の三博士とかマリア信仰とかに関する論文を紹介してくれるかなあと期待していたら、ちょこっとだけあった(笑)。メリス・テイナー(タネール?)という人の修論(Melis Taner, ‘Accompanying the Magi : closeness and distance in late medieval “adorations of the Magi” in Central Europe’, Central European Univsersity, Budapest, 2007)。その序章によると、東方の三博士が「王」として言及される嚆矢は3世紀のテルトゥリアヌスだというが、その三博士が視覚芸術に描かれるようになるのは12世紀を待たなくてはならないという。また三人に限定したのはオリゲネスなのだそうだ。12世紀以降、三博士は典礼劇での主役に躍り出、中世盛期になると、いかにも王という感じで、付き人などとともに描かれるようになるという。なるほどねえ。この論文、タイトルにもあるように、主眼はこの三博士の話が、中世末期以降(とくに15世紀以降)の中欧でどう受け入れられたかという分析。とりわけ遠来の地を示すための「東洋的」な表象や、あるいは親しみやすさを表すべく散りばめられたモチーフなどに注目し、視覚芸術としてどのような意味が与えられていたかを考察している。本文はまだ読みかけなのだけれど、たとえばプレスター・ジョンの王国が14世紀にエチオピアにあるとされるようになって、マギの一人が黒人として描かれるようになった、なんて話はとても興味深い(笑)。珍しい図版もいろいろ入っていて、こうした分野の研究の面白さがすでにして伝わってくる感じがする。いまさらながら、若い人の修論も結構面白いなあ、と改めて。

↓バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Murillo:17世紀のスペインの画家)の「マギの礼拝」。wikipediaから。

プセロス「カルデア神託註解」 12

Δίζεο καὶ ψυχῆς ὀχετόν, ὅθεν ἔν τινι τάξει
σώματι θησεύσασ᾿ ὑπέβη καὶ πῶς ἐπὶ τάξιν
αὖθις ἀναστήσεις, ἱερῷ λόγῷ ἔργον ἑνώσας.

Τοῦτ᾿ ἔστι · ζήτει τὴν ἀρχὴν τῆς ψυχῆς, πόθεν παρήχθη καὶ ἐδούλευσε σώματι καὶ πῶς ἄν τις ταύτην ἄνευ κρίσεως, ἐγείρας διὰ τῶν τελεστικῶν ἔργων, ἐπαναγάγοι ὅθεν ἀφίκετο. ¨Ἱερῷ λόγῷ ἑνώσας¨ · τοῦτο δὲ τοιοῦτόν ἐστι. ἱερός ἐστιν ἐν ἡμῖν λόγος, ἡ νοερωτέρα ζωή, μᾶλλον δὲ ἡ ὑψηλοτέρα δύναμις τῆς ψυχῆς. ἣν ἄνθος νοῦ ἐν ἑτέροις ὀνομάζει τὸ λόγιον. Ἀλλ᾿ οὗτος ὁ ἱερὸς λόγος ἀδυνατεῖ ἀφ᾿ ἑαυτοῦ πρὸς τὴν ὑψηλοτέραν ἀναγωγὴν καὶ πρὸς τὴν τοῦ θείου παράληψιν. Καὶ ὁ μὲν τῆς εὐσεβείας λόγος χειραγωγεῖ τοῦτον πρὸς θεὸν διὰ τῶν ἐκεῖθεν ἐλλάμψεων, ὁ δὲ Χαλδαῖος διὰ τῆς τελεστικῆς ἐπιστήμης. /

「魂の水路を探るがよい。魂が、身体に置かれ
なんらかの秩序にまで下ったその源を。そしてあなたがどのように
それをもとの秩序に引き上げ、聖なるロゴスの働きと一つにするのかを」

つまりこういうことである。あなたは、魂が肉体に仕えるべく生じたその源泉を探求し、また、判断を差し挟まず、儀礼的行為を通じてそれをどうすれば覚醒させ、それがやって来たもとの場所に戻すことができるのかを探求せよ、と。「聖なるロゴスの働きと一つにする」とはこういうことである。私たちの中には聖なるロゴスがあり、それはより知的な生、あるいはむしろより高度な魂の力のことであり、神託はそれを別の箇所では知性の花と呼んでいる。しかしながらその聖なるロゴスは、そのままではさらなる高みに登って神的なものを受け取ることはできない。敬虔なる言葉は神からの照射を通じて魂を神へと導くものだが、カルデア人は儀礼の知識によって導くのである。/

ユダヤ教から見たイエス像

これまた年越し本。ペーター・シェーファー『タルムードの中のイエス』(上村静ほか訳、岩波書店)。序章と1章の後にいきなり9章に飛び、そこから残りに戻るという、少し乱雑な読みをあえてしているのだけれど(苦笑)、全体としては結構興味深い。タルムードの中にイエスがどのように描かれているかを掘り起こすことで、ユダヤ教側がその新種の「セクト」にどう対応しようとしていたのか、実像を示そうという野心的な試み。もちろん、すぐに予想されるのは、キリスト教を貶めるような描かれ方をしているだろうということ。著者はそれを「対抗物語」として詳しく追っていくのだけれど、そこから、実はユダヤ社会側の反応も一枚岩ではなく、多様な社会情勢を反映していたことが読み取れると主張している。特にバビロニア・タルムードとパレスチナ系の資料の間には、主題の扱い方などの傾向に大きな違いがあるという。前者がイエス個人を大きく取り上げ、その奇跡譚を魔術として批判するのに対し、パレスチナ資料はイエスの弟子たちとそのセクトの異端的な性格を描こうとするのだという。で、その差は(当然というべきか)両資料の作成された時期・場所に密接に関係しているらしい……と。ユダヤ教のラビたちが何を恐れ、何から身を守ろうとしていたのかが、そういう些細な資料から浮かび上がるかもしれない、というところが、本書のとてもスリリングな面。

政治哲学の曙 1

今年の年越し本の一つが、アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』(André de Muralt, “L’Unité de la philosophie politique – de Scot, Occam et Suarez au libéralisme contemporain”, Vrin, 2002。これ、まだざっと三分の一を見ただけだし、中世プロバーの論考ではないけれど、すでにして、近代的な政治哲学の根っこが中世後期のスコトゥス、オッカムのラインにあることを示した好著、という印象だ。まずは認識論と意志論の考察。スコトゥスに端を発する(一応)とされる「主体が対象を認識する原因は、認識対象の存在にあるのではなく、むしろ神の照明(ないしはイデアの注入)にある」という考え方(これ自体はフランシスコ会派的なアウグスティヌス主義に連なる立場だけれど)は、オッカムにいたって主体から対象への志向性すら否定され、むしろ認識は対象と同時に主体をも構成する契機なのだと見なされるようになっていく。デカルト的なコギトの考え方の先駆がそこに見出されるというわけなのだけれど、いずれにしてもそうした流れは政治思想にも影響を及ぼさずにはいない。スコトゥス的な考え方には神権を起源とする政治哲学が、オッカム的な考え方には人間を起源とする政治哲学が導かれる。これはまあ、そうなのだろうなあと思う。

それと並行して進んでいくのが、主意主義の台頭。というわけで、同書もそこから意志論に入っていく。スコトゥスは神の意志は完全に自由であるとし、一方で人間の意志については自己愛や隣人愛をそこに含ませていると考えた。神の規定に沿うことが倫理の条件であるというわけだ。というこれに対してオッカムは、上と同様、(神でも人間でも)意志そのものは倫理的ではなく、倫理の条件は余所に見出されるという立場を取る。それは「神がアプリオリに与える義務」による規定だとされる。これはデカルトにも通じる立場で、それがすなわち法の根拠になる、と。けれども神の権威に立脚するこの法の考え方は、時代が下ると、神権政治的に深化するか(ルターなど)、権威から神を排除し人間理性を据えるか(カント)といった変化を起こす。けれども前者は形骸化を招き、後者は国家という形での民主化と議論の空間を導いたものの袋小路に入ってしまっている……。で、著者はここで再びステップバックして、今度は倫理が人間の意志に内在しているとする考え方を追う……。というのが今読みかけのところ。さて、どう展開するのだろう?

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