昨日はエピファニー(公現祭)。そんなわけで、Medievalist.netあたりが、東方の三博士とかマリア信仰とかに関する論文を紹介してくれるかなあと期待していたら、ちょこっとだけあった(笑)。メリス・テイナー(タネール?)という人の修論(Melis Taner, ‘Accompanying the Magi : closeness and distance in late medieval “adorations of the Magi” in Central Europe’, Central European Univsersity, Budapest, 2007)。その序章によると、東方の三博士が「王」として言及される嚆矢は3世紀のテルトゥリアヌスだというが、その三博士が視覚芸術に描かれるようになるのは12世紀を待たなくてはならないという。また三人に限定したのはオリゲネスなのだそうだ。12世紀以降、三博士は典礼劇での主役に躍り出、中世盛期になると、いかにも王という感じで、付き人などとともに描かれるようになるという。なるほどねえ。この論文、タイトルにもあるように、主眼はこの三博士の話が、中世末期以降(とくに15世紀以降)の中欧でどう受け入れられたかという分析。とりわけ遠来の地を示すための「東洋的」な表象や、あるいは親しみやすさを表すべく散りばめられたモチーフなどに注目し、視覚芸術としてどのような意味が与えられていたかを考察している。本文はまだ読みかけなのだけれど、たとえばプレスター・ジョンの王国が14世紀にエチオピアにあるとされるようになって、マギの一人が黒人として描かれるようになった、なんて話はとても興味深い(笑)。珍しい図版もいろいろ入っていて、こうした分野の研究の面白さがすでにして伝わってくる感じがする。いまさらながら、若い人の修論も結構面白いなあ、と改めて。
今年の年越し本の一つが、アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』(André de Muralt, “L’Unité de la philosophie politique – de Scot, Occam et Suarez au libéralisme contemporain”, Vrin, 2002)。これ、まだざっと三分の一を見ただけだし、中世プロバーの論考ではないけれど、すでにして、近代的な政治哲学の根っこが中世後期のスコトゥス、オッカムのラインにあることを示した好著、という印象だ。まずは認識論と意志論の考察。スコトゥスに端を発する(一応)とされる「主体が対象を認識する原因は、認識対象の存在にあるのではなく、むしろ神の照明(ないしはイデアの注入)にある」という考え方(これ自体はフランシスコ会派的なアウグスティヌス主義に連なる立場だけれど)は、オッカムにいたって主体から対象への志向性すら否定され、むしろ認識は対象と同時に主体をも構成する契機なのだと見なされるようになっていく。デカルト的なコギトの考え方の先駆がそこに見出されるというわけなのだけれど、いずれにしてもそうした流れは政治思想にも影響を及ぼさずにはいない。スコトゥス的な考え方には神権を起源とする政治哲学が、オッカム的な考え方には人間を起源とする政治哲学が導かれる。これはまあ、そうなのだろうなあと思う。