瞬く間にたまっていく未読の論文PDFたち(苦笑)をざっと見しながら整理していて、14世紀のシスマ(教会大分裂)の影響について触れたものが立て続けに目に止まる。一つは、カントーニ&ヤッチマン「中世の大学、司法制度、商業革命」(Davide Cantoni and Noam Yuchtman, Medieval Universities, Legal Institutions, and the Commercial Revolution, paper given at New Frontiers in Economic History conference at Stanford University (2010))という論考(PDFはこちら)。これは経済史系の論考で、中世後期の商業革命と大学の関係を論じたものなのだけれど、他国に遅れてドイツに大学が成立する契機の一つに、そのシスマがあったという。ドイツでは1386年にハイデルベルク大、1388年にケルン大、1392年にエアフルト大、1409年にライプチヒ大と、短い期間に相次いで大学が誕生するが、それ以前、ドイツ領域の学生たちはパリ、ボローニャ、プラハなどに趣くしかなった。ところがたとえばパリでは、シスマ以後、ローマ教皇側に忠実なドイツの学生や学部自体を許容しなくなり、またローマ教皇側もパリの神学的独占を弱める手段として大学の増加を歓迎して勅書を出し、かくしてドイツの学生たちは自国の新生の大学で、インゲンのマルシリウスなどの人気教師のもとに集ったのだとか。なるほど、シスマのそういう側面については思いを馳せたことがなかったなあ、と。
もう一つはアンドレ・ヴォシェ「中世末期の教会内非公式権力:幻視者、予言者、神秘家」(André Vauchez, Les pouvoirs informels dans l’Église aux derniers siècles du Moyen Âge : visionnaires, prophètes et mystiques, in Mélanges de l’école française de Rome,vol.96, 1984, pp.281-293)というもの。こちらはシエナのカテリーナなど14世紀中盤ごろの女性幻視者たちについての論考。シスマによって教会組織同士が抗争し結果的に双方が弱体化してくると、教会権力は世俗の君主の政治的権力を支えとするようになり、また一方では教会の信用を補強すべく、神秘家や予言者らを活用することさえ辞さなくなる。こうして、それまで表舞台になかなか出てこなかった幻視者などが日の目を見ることになる。シエナのカテリーナもまさにそうした典型で、ウルバヌス六世の大義を支持することになった。このあたりの各教皇にはそうした神秘家・幻視者の味方がそれぞれ付くことになる。シスマを通じて、幻視は政治化され(政治的文脈で使われるようになり)、女性幻視者のメシア的性格がいよいよ強調されていく……。なるほど、シスマと国家権力の強化という話はそれなりに目にする気がするけれど、女性幻視者の表舞台への登場もそれと関連しているというのはなかなか思い至らないかも。同論文ではさらに、シスマとの関連によりオランダ・ドイツ圏では神秘主義的な命脈が生まれ、それが結局は信と知との分離を強調することになり、オッカム以降すでにほころびはじめていたスコラ神学の体系を、さらに内部から浸食していくことにもなった、とも指摘している。スコラ学の浸食も神秘主義の命脈もごく少数の人々にしか関係しない現象ではあったけれども、それらの人々はより深いところで進行していた変化を体現することになったのだ、と。
↓ wikipedia commonsから、ドメニコ・ベッカフーミ画のシエナのカテリーナ(1515年ごろ)
再び『植物の世界』から。パオラ・ベルナルディーニ「人間の身体は植物的・感覚的・理性的:13世紀の『霊魂論』注解における植物的魂」(Paola Bernardini, Corpus humanum est vegetabile, sensibile et rationale. L’Âme végétative dans les Commentaires au De Anima au XIIIe siècle, pp.137-155)を読む。これは植物そのものについてどうこういうのではないのだけれど、「霊魂論」注解の歴史についての復習的なまとめとして役立ちそう。論文そのものの主旨は、13世紀後半にとりわけ盛んに議論された「人間の形相は単一か複数か」という質料形相論的な議論(ドミニコ会vsフランシスコ会という政治的な拮抗も絡んだ論争)の上流に、アリストテレス起源の「魂の三態」をめぐる解釈上の対立があったことを改めて示そうというもの。魂の三態というのは、植物的魂、感覚的魂、知性的魂のことで、アリストテレスの『魂について』(II巻、3章)には、下位の能力は上位の能力に内包されるという一節があり、そのため中世においては、それら三態がどのような様態で存在しているのかについて議論が分かれていく……。というわけで以下要約。
先日取り上げた『植物の世界』(Le monde végétal)から再び。先のヴォイニッチ写本の論文でも触れられていてとても気になっているダマスクスのニコラウス『植物論(De plantis)』だけれど、これについて、ルチアーナ・レピチ「古代・中世の伝統における偽アリストテレス『植物論』」(Luciana Repici, Il De Plantis Pseudo-Aristotelico nella tradizione antica et medievale, pp.77-94)という論考で詳しく論じている。中身は、どれも基本情報として押さえておきたいことばかり。この書はオリジナルとされるギリシア語版は失われていて、5種類の翻訳が現存し(アラビア語訳、シリア語訳、ヘブライ語訳、古いラテン語訳をもとにしたアウソニ某によるギリシア語への訳し替え版、アラビア語版をもとにしたサレシェルのアルフレッドによるラテン語訳(1200年頃))、どうやら各版の相違が激しいようで、もとのテキストが注釈だったのか要約だったのかといったことも見えてこないらしい(ちなみにこの5つの翻訳は校注版(?)がBrillから1989年に出ているようだ)。東方世界では、この書はダマスクスのニコラウスの手によるものとされてきたのに対し、中世の西欧ではこれはアリストテレスの著書と考えられていて、医学的な草木論としてではなく、むしろアリストテレスやテオフラストスなどの「理論」書に類するものと位置づけられていた、と。論考は『植物論』のテーマごと(生命活動、形状、構成と栄養補給、変容)にその特徴的な議論をまとめて示してくれているのだけれど、全体としてアリストテレスの自然学を思わせる記述が多いらしく、13世紀初頭ごろの、比肩しえない権威としてのアリストテレスというイメージの定着の一端が垣間見える、みたいなことを著者は結論で記している(表記通りではないけれど)。
では月草のほうはどうかというと、月の満ち欠けとともに成長する植物についての記述は、イスラムの錬金術の伝統に古くからあるようなのだけれど(10世紀、パリ写本1)、どうやらそこでは「植物だというのは石のアレゴリーだ」みたいな説明がなされ、上の透明石膏が示唆されているらしい。けれども論文著者によれば、もしそうだとすると錬金術の処方上、一種のトートロジーをなしてしまうという問題が生じる。そこで著者は、カイロ写本とパリ写本2にあるharmalという植物に着目する。これはどうやら、薬草として使われるヘンルーダの一種(rue de Syrie)で、これが様々な特性の類似(白の色、種、薬効の共通性)や錬金術の象徴体系、アレゴリーなどを通じて同一視されることになったのではないか、とされている。さらにはペルシア・インド系の宗教的伝統が絡んでいる可能性も……(?)。もちろんこのあたりの議論は推論でしかないわけだけれど、いずれにしても13世紀ごろには西欧世界でも「月草」なるものの存在は確信されていたというし、細かな話ではあるけれど、その意味世界の拡がりには、なにやら年の初めから妙に興味をかき立てるものがある(笑)。