教会シスマとパリ大学

シスマ関連のこれまた興味深い論考。エリック・D・ゴッダード「パリの学者たちによる教皇の聖職叙任制度への反旗という神話」(Eric D. Goddard, The Myth of Parisian Scholars’ Opposition to the System of Papal Provision (1378–1418) in History of Universities, Vol.24, Oxford Univsersity Press, 2009)。かなり前に読んだエメ=ジョルジュ・マルティモール『ガリカニズム』(朝倉剛・羽賀賢二訳、白水社、文庫クセジュ)などには、14世紀末からの教会シスマの解決策として「退位の道」(アヴィニョン教皇への服従を拒否して、教皇を退位に追い込むというもの)を提唱したのがパリ大学で、やがてベネディクトス13世の攻撃の急先鋒という役割を担うようになる、という話が出ていたのだけれど、そのあたりのパリ大学の立ち位置にいくばくかの修正を加えようというのがこの論考(らしい)。従来、パリ大学側がとりわけ全体的な問題としていたとされるのは、教皇による聖職叙任権だったということなのだけれど、実情はそうでもなかったのではないかという主旨での話が展開する。論拠となる主な史料は、パリ大学で開催された聖職者会議の声明文と、パリ大学の学者たちが教皇から取り付けた嘆願の数々。これらをもとに、紆余曲折のあった服従拒否案件の行方、そうした退位論をめぐる大学関係者内部での分裂状況、教皇側の対応などを取り上げていく。ピエール・ダイイ(唯名論者としても知られるけれど、占星術師だったりもする)、ニコラ・クラマンジュ、ジャン・ジェルソンなども1394年以前は退位論者だったものの、ベネディクト13世からの叙任を受けて王権側を批判するようになるのだとか。大学からは教会側と結託しているとしてつるし上げられたらしい(そういう表現ではないけれど(笑))。

とくに詳しく取り上げられているのはまず第2回の聖職者会議(1396年)。前者は大学側が全体として教皇の叙任権に批判的な立場であることを明確にしたとされるというけれど、論考ではそれとてどうも一枚岩ではなかったことが示されている。王政の側もすぐにどうこうということはなかったらしいし、学者の側もあまり過激な提案はしていないという。ところが1398年の第3回会議になると、いくつかの要因が重なって(税務についての教皇側の態度の変化、外交的側面など)、教皇への服従拒否論、教皇の叙任権への反対論が拡大していく。もっとも、やはり一枚岩ではなく、そうした反対論はパリの学者たちというよりもフランス各地の高位聖職者の間で強固に唱えられていたらしい。さらにこの後、大学側の教皇への敵意に乗じて王政側が聖職禄の管理を強化しようとする。1403年にはパリ大学の学者たちの多くが服従の回復を支持し、教皇側も大学側の嘆願を利用したりして学者たちの支持を取り付ける。ところが教皇は公会議開催の約束を守るそぶりをついぞ見せず、1404年にはジャン・ジェルソンが一転して批判側に回ったり……。いや〜、月並みな言い方だけれどこのあたり、三者三様のまさに政治的駆け引きで、財政的な思惑とかいろいろ絡んでなんともスリリングな感じだ。こういう論文は読んでいて飽きない(笑)。

↓wikipedia(en)から、ピエール・ダイイの肖像。

『世界の永続性について』13章

フィロポノスの『世界の永続性について』(Johanness Philoponos, De aeternitate mundi / Über die Ewigkeit der Welt V, Clemens Scholten(ubs), Brepols, 2011)13章は、それまでのどちらかというと形而上学的な話から、自然学的な話へとシフトしている。これもまた長い一章なので大きくポイントだけを整理しておくと、まず、注解のもとになっているプロクロスの文章のポイントはこんな感じ。天空の運動は円運動だが、それが自然の運動であるならば、元素のレベルでそうした運動をなすはずで、よって天空は四元素とは別の元素から成る。生成と消滅が対をなす元素の動きであるなら、別元素の天空は生成も消滅もしないものと考えられる。部分が生成も消滅もしないなら全体もそうであり、したがって天空は生成も消滅もしない……。これに対してフィロポノスは、天空は四元素とは別の元素(アリストテレスにもとづく第五元素)から成るのではなく、プラトンにもとづき、やはり四元素から成るとの基本的立場を示している。その上で、円運動は四元素の自然な動きではないとし、それは外部の力(霊魂の力)によって引き起こされているのだとしている。

天空もやはり同じ元素でできた生成・消滅可能なものだということになる。元素は生成・消滅がありえ(流転する)、それからなる世界の一部(たとえば動物とか)も生成・消滅がありえ、ひいてはコスモスという全体も生成・消滅がありうる……。こうしてフィロポノスは、『ティマイオス』などのテキストを引き合いに出しながら、天空を特徴付けるのはより細やかで純粋な火、燃焼性というよりも生命を育む火であって、それが天空を満たしているという説を示し、プラトンのそうした学説を後継者たちが歪曲したとして批判してみせる。批判対象となっているプロクロスには当然手厳しいものの(アリストテレス的な第五元素へと日和った(?)と見る)、前にも出てきたけれど、ポルピュリオスについてはここでもまた、プラトンに忠実だとして高い評価を与えている。

オッカムとペラギウス主義

オッカムにかかった「ペラギウス主義」の嫌疑についての考察が、『ケンブルッジ・オッカム必携』(The Cambridge Companion to Ockham, ed. Paul Vincent Spade, Cambridge University Press, 1999)にあるので早速眺めてみた。15章をなすレガ・ウッド「オッカムのペラギウス主義との咎」(Rega Wood, Ockham’s Repudiation of Pelagianism, pp.350-373)。これの最初のところをまとめておこう。まずペラギウスの教説で問題になっていたのは、神の恩寵が救済にとって必要であるとされることを彼が否認し、創造それ自体が恩寵であって、人類には罪を犯さない能力が備わっている、と考えたこと。けれどもオッカムはもとより人間の本性による行為は功徳をなしえないと考えていたようで、その意味ではペラギウス的とは言えない。ではその嫌疑はどこから来たのか。オッカムは恩寵は功徳(merit)には必要だが、善行(virtue)には必ずしも必要ではないと考えているという。功徳とは永遠の生が与えられる(救済される)もととなる性質、善行とは地上世界での倫理的な行いということで、オッカムはそれらを区別し、善行に関してはペラギウス的に(というよりはむしろアリストテレス的に)、創造された人間の本性は多くの場合善くはたらくとしているわけだ(そのため、異教の者でも善行は可能だと考えている)。ところが、アウグスティヌスはこの善行についても、善をなす意志は洗礼という恩寵を通して与えられるとして、ペラギウス的な考え方を斥けている。というわけでオッカムは、アリストテレス的な善行の考え方と、アウグスティヌスの恩寵の付与の考え方を調停しなくてはならない。

オッカムはこれに、二種類の恩寵を区別して対応する。一つは超自然的な起源をもつ(つまりは神による)形相もしくはハビトゥスの注入、もう一つは功徳にもとづき神が無償で与える被造物の受け入れだ。この区別自体はすでに神学の伝統として前例があり、前者は「主導の恩寵」(operant grace)、後者は神の是認といわれる。オッカムは実のところ、この両者のいずれをも必要と認めており、ただ注がれたハビトゥスもしくは慈悲心だけでは功徳を積むには不十分だとし、また、獲得された慈悲心と注がれた慈悲心とを併せ持つことによって功徳にも、善行にも十分な条件が整うと考えているという。論文著者はこうしたことから、オッカムが主導の恩寵を否定ないしは無意味とした、と考えたアヴィニョンの裁判所主事らは明らかに誤っていたと断じている。

……これに関連して、恩寵の付与は誰が管理しうるのかという問題もオッカムの嫌疑の一部をなしているけれど(たとえば、恩寵を受ける素地を人はみずからの力で達成しうるのかとか、救霊予定はなんらかの原因によるものなのかなど)、論文後半を見ると、著者が結論づけるように、オッカムは教会の権威と部分的に見解を異にしつつも、基本的な部分では「神の自由意志は何ものにも制限されえない」と、当時としてはごく普通の反応をしているように見える。

禁令とオッカムの評価

先に中世後期以降のアリストテレス思想圏について連投していて興味深く読ませていただいたブログ「オシテオサレテ」(坂本氏)が、「中世哲学と検閲」というアーティクルを載せている。『ケンブリッジ中世哲学史』にピュタラズが寄せている「検閲」という一章についてのコメントだ。タンピエによる1270年・77年の禁令にはさほどの実効性はなかったというが、なによりもまず保守派(やや語弊があるかもしれないけれど)のリアクションとしてそれ自体で興味深い気がする。ピュタラズのこの概説でも示されているとおり、そもそも相手を特定せずに漠然とした主張の数々を取り上げている点がすでにして異例であり、それぞれの条項が誰のどんな教説に対応するのか定かではなく、政治的な思惑なども絡んで(教皇サイドの思惑など:教皇使節シモーヌ・ド・ブリオンの役割については、目下読んでいるヴェベール本でも最初のほうで取り上げられていた)実情はすこぶる複雑だったことが窺える。もとより思想史的な枠組みだけで捉えてよいようなものではないのは明らかだけれど、当時の保守派サイドから見た「危険思想」のカタログとして眺めるなら、この本文は結構面白いのではないかと個人的には思っている。実際のところ何を怖れていたのかというあたりはとても気になる(笑)。

ピュタラズはさらにオッカムへの追求とその破門についても触れている。まず、アヴィニョンでの審問はオッカムに「ペラギウス主義」の嫌疑がかかったせいだという話だけれど、これがオッカムの自由意志の考え方のせいだろうというのはなんとなくわかるけれど、具体的な話は同文章からは今一つはっきりしない(ピュタラズは善行と善意の切り離しみたいな話をさらっと書いているだけだ)。後でもうちょっと具体的なことを見てみたい。

また、ピュタラズはオッカム派の学説が1339年にパリ大学で禁じられた点について、ありそうな理由として、オッカムがアリストテレスの10の範疇を2つに縮減したこと、時間概念の批判、そしてオッカムの斬新にすぎるとされた解釈方法を挙げている。このうちとりあえず最初の範疇の縮減については、前に取り上げたパウルス本(ヘンリクス論)に関連した記述があったのでメモっておこう。範疇の縮減は、もともとゲントのヘンリクスが10の範疇を3つ(実体、性質、量)にしていたのを、オッカムがそのうちの1つである量を質料もしくは物質的実体に含まれるとして排除したという経緯がある。実在する事物について人が想像力で捉えうる絶対的なものとは、実体かもしくは性質しかないというわけだ。で、オッカムの場合、異なる事物の間の関係性(ヘンリクスはそれを存在の様態という別個のものと考えていたが)などは、それら絶対的なものが同時に存在することを指し示す名称もしくは概念でしかないと考えている。そして、省察するならばそれこそがアリストテレスの本義に適う議論だ、と宣言しているのだという。あるいはこのあたりが、オッカム(というかオッカム派)がアリストテレスを逸脱し、それにとって代わるかのように見なされた原因の一端なのかもしれない……。時間論と解釈論については、これもまた後で見ることにする。

アダム・ヴォデハム

前回のメルマガでスーザン・ブラウアー=トランドの「いかにチャットンはオッカムの心を変えたか」という論考(Susan Brower-Toland, How Chatton Changed Ockham’s Mind: William Ockham and Walter Chatton on Objects and Acts of Judgment. In G. Klima (ed.), Intentionality, Cognition and Mental Representation in Medieval Philosophy. Fordham University Press, forthcoming)を取り上げたのだけれど、そこにちょっとだけ、オッカムとチャットンの対立の構図が後世の弟子筋へと受け継がれていくことが示されている。というか、彼らは両者の対立点をスターティングポイントにして議論を重ねていくのだという。言及されているのは、アダム・ヴォデハム、ウィリアム・クラトホーン、ロバート・ホルコット。いずれもオッカム後のオックスフォード哲学者第一世代とされる人々だ。どちらかの立場に立つか、あるいは両者の間の中道を行くかはそれぞれらしいが、同論考の末尾では、判断とは認識の一種なのか(オッカムの立場)それとも判断自体は意志や表象を伴わないものなのか(チャットンの立場)について、アダム・ヴォデハムによる両者の議論のまとめが紹介されている。14世紀後半の判断論の議論は、判断の対象もさることながら、判断という行為の性質にまで及ぶといい、ヴォデハムのまとめは、それがオッカムとチャットンのやり取りに端を発していることを示していると結んでいる。

で、もう一つ。やはりオッカムとチャットンの、今度は天使と人間との思考の処理をめぐる対立についてのマーティン・レンツの論考(Martin Lenz, Why Can’t Angels Think Properly ? Ockham against Chatton and Aquinas in Angels in Medieval Philosophical Inquiry: Their Function and Significance, Isabel Iribarren and Martin Lenz (eds.), Aldershot: Ashgate 2008)にも、最後のほうでヴォデハムへの言及がある(論考自体は次のメルマガでちょこっと取り上げる予定)。心的言語による思考は天使にも人間にも共通だ、というのがオッカムの基本的な考え方なのだけれど、チャットンは天使の場合にはそれがフラッシュのように一度にすべての知識を与えられると考える。福者に与えられる啓示の場合も、同様に一度に真として与えられるとされるのだけれど、ヴォデハムはそれについて、オッカム寄りの立場からチャットンの論点を突いているのだという(詳細は略)。うーむ、ヴォデハムもちょっと面白そうだなあ。ちなみにAdam Wodham Critical Edition Projectという専門サイトもある。