シスマ関連のこれまた興味深い論考。エリック・D・ゴッダード「パリの学者たちによる教皇の聖職叙任制度への反旗という神話」(Eric D. Goddard, The Myth of Parisian Scholars’ Opposition to the System of Papal Provision (1378–1418) in History of Universities, Vol.24, Oxford Univsersity Press, 2009)。かなり前に読んだエメ=ジョルジュ・マルティモール『ガリカニズム』(朝倉剛・羽賀賢二訳、白水社、文庫クセジュ)などには、14世紀末からの教会シスマの解決策として「退位の道」(アヴィニョン教皇への服従を拒否して、教皇を退位に追い込むというもの)を提唱したのがパリ大学で、やがてベネディクトス13世の攻撃の急先鋒という役割を担うようになる、という話が出ていたのだけれど、そのあたりのパリ大学の立ち位置にいくばくかの修正を加えようというのがこの論考(らしい)。従来、パリ大学側がとりわけ全体的な問題としていたとされるのは、教皇による聖職叙任権だったということなのだけれど、実情はそうでもなかったのではないかという主旨での話が展開する。論拠となる主な史料は、パリ大学で開催された聖職者会議の声明文と、パリ大学の学者たちが教皇から取り付けた嘆願の数々。これらをもとに、紆余曲折のあった服従拒否案件の行方、そうした退位論をめぐる大学関係者内部での分裂状況、教皇側の対応などを取り上げていく。ピエール・ダイイ(唯名論者としても知られるけれど、占星術師だったりもする)、ニコラ・クラマンジュ、ジャン・ジェルソンなども1394年以前は退位論者だったものの、ベネディクト13世からの叙任を受けて王権側を批判するようになるのだとか。大学からは教会側と結託しているとしてつるし上げられたらしい(そういう表現ではないけれど(笑))。
フィロポノスの『世界の永続性について』(Johanness Philoponos, De aeternitate mundi / Über die Ewigkeit der Welt V, Clemens Scholten(ubs), Brepols, 2011)13章は、それまでのどちらかというと形而上学的な話から、自然学的な話へとシフトしている。これもまた長い一章なので大きくポイントだけを整理しておくと、まず、注解のもとになっているプロクロスの文章のポイントはこんな感じ。天空の運動は円運動だが、それが自然の運動であるならば、元素のレベルでそうした運動をなすはずで、よって天空は四元素とは別の元素から成る。生成と消滅が対をなす元素の動きであるなら、別元素の天空は生成も消滅もしないものと考えられる。部分が生成も消滅もしないなら全体もそうであり、したがって天空は生成も消滅もしない……。これに対してフィロポノスは、天空は四元素とは別の元素(アリストテレスにもとづく第五元素)から成るのではなく、プラトンにもとづき、やはり四元素から成るとの基本的立場を示している。その上で、円運動は四元素の自然な動きではないとし、それは外部の力(霊魂の力)によって引き起こされているのだとしている。
オッカムにかかった「ペラギウス主義」の嫌疑についての考察が、『ケンブルッジ・オッカム必携』(The Cambridge Companion to Ockham, ed. Paul Vincent Spade, Cambridge University Press, 1999)にあるので早速眺めてみた。15章をなすレガ・ウッド「オッカムのペラギウス主義との咎」(Rega Wood, Ockham’s Repudiation of Pelagianism, pp.350-373)。これの最初のところをまとめておこう。まずペラギウスの教説で問題になっていたのは、神の恩寵が救済にとって必要であるとされることを彼が否認し、創造それ自体が恩寵であって、人類には罪を犯さない能力が備わっている、と考えたこと。けれどもオッカムはもとより人間の本性による行為は功徳をなしえないと考えていたようで、その意味ではペラギウス的とは言えない。ではその嫌疑はどこから来たのか。オッカムは恩寵は功徳(merit)には必要だが、善行(virtue)には必ずしも必要ではないと考えているという。功徳とは永遠の生が与えられる(救済される)もととなる性質、善行とは地上世界での倫理的な行いということで、オッカムはそれらを区別し、善行に関してはペラギウス的に(というよりはむしろアリストテレス的に)、創造された人間の本性は多くの場合善くはたらくとしているわけだ(そのため、異教の者でも善行は可能だと考えている)。ところが、アウグスティヌスはこの善行についても、善をなす意志は洗礼という恩寵を通して与えられるとして、ペラギウス的な考え方を斥けている。というわけでオッカムは、アリストテレス的な善行の考え方と、アウグスティヌスの恩寵の付与の考え方を調停しなくてはならない。
前回のメルマガでスーザン・ブラウアー=トランドの「いかにチャットンはオッカムの心を変えたか」という論考(Susan Brower-Toland, How Chatton Changed Ockham’s Mind: William Ockham and Walter Chatton on Objects and Acts of Judgment. In G. Klima (ed.), Intentionality, Cognition and Mental Representation in Medieval Philosophy. Fordham University Press, forthcoming)を取り上げたのだけれど、そこにちょっとだけ、オッカムとチャットンの対立の構図が後世の弟子筋へと受け継がれていくことが示されている。というか、彼らは両者の対立点をスターティングポイントにして議論を重ねていくのだという。言及されているのは、アダム・ヴォデハム、ウィリアム・クラトホーン、ロバート・ホルコット。いずれもオッカム後のオックスフォード哲学者第一世代とされる人々だ。どちらかの立場に立つか、あるいは両者の間の中道を行くかはそれぞれらしいが、同論考の末尾では、判断とは認識の一種なのか(オッカムの立場)それとも判断自体は意志や表象を伴わないものなのか(チャットンの立場)について、アダム・ヴォデハムによる両者の議論のまとめが紹介されている。14世紀後半の判断論の議論は、判断の対象もさることながら、判断という行為の性質にまで及ぶといい、ヴォデハムのまとめは、それがオッカムとチャットンのやり取りに端を発していることを示していると結んでいる。
で、もう一つ。やはりオッカムとチャットンの、今度は天使と人間との思考の処理をめぐる対立についてのマーティン・レンツの論考(Martin Lenz, Why Can’t Angels Think Properly ? Ockham against Chatton and Aquinas in Angels in Medieval Philosophical Inquiry: Their Function and Significance, Isabel Iribarren and Martin Lenz (eds.), Aldershot: Ashgate 2008)にも、最後のほうでヴォデハムへの言及がある(論考自体は次のメルマガでちょこっと取り上げる予定)。心的言語による思考は天使にも人間にも共通だ、というのがオッカムの基本的な考え方なのだけれど、チャットンは天使の場合にはそれがフラッシュのように一度にすべての知識を与えられると考える。福者に与えられる啓示の場合も、同様に一度に真として与えられるとされるのだけれど、ヴォデハムはそれについて、オッカム寄りの立場からチャットンの論点を突いているのだという(詳細は略)。うーむ、ヴォデハムもちょっと面白そうだなあ。ちなみにAdam Wodham Critical Edition Projectという専門サイトもある。